聳え立つ建屋、どういうわけかこの作品を観るものの眼差しは上へ導かれる。上にいくに従って衝撃的だからに違いない。
視点が地平線上だとすれば、上へいくに従って建屋は小さくなる。それが逆に拡大・巨大化されているからで、つまりは遠近法の無視に因している。
人は条理より不条理に違和感を覚え関心を抱く。不審を抱きつつも眼差しは建屋の上方に釘付けになり、立地の建屋を見過ごしてしまう傾向がある。もちろん認知していないわけではない、しかし、曲芸の危険を感知しながらも、心のどこかで不安を打ち消し大丈夫なのだと言い聞かせる心理に似ている。この場合、建屋が宙に浮いているのでない限り倒壊は免れず、不安定な建てることも不可能な空想上の建屋でしかない。
にもかかわらず、空の不穏も建屋の不気味さに共鳴するような彩色である。それに建屋の屋根から出ている煙突状のものは何だろう。下の方にある煙突状のものが火を噴いたなら上階の建屋は燃えてしまう。それに建屋にぶら下がる形での建造物など、この重力圏内ではありえないし、あるとするならば、よほど軽量であるか、よほど強力な支えが必要である。見るからに危険を孕んだ(描いたからには、あるかもしれないと思わせる)とんでもない空想の産物である。
一見透視図法にかなっている風な様相を呈しているが、それ以前の問題として、狭小に見える建屋にこれだけの建屋を上に重ねることは絶対に不可能である。
だから、「心のまなざし」と銘打っているだろうといえば、それまでである。
自分の心は、こんな風である。つまり、嘘、虚像、不可能、でたらめを重ねている。わたくしは、わたくしという一個の人間にはとても支えきれないような虚空間を建造している。重力圏にある地球の物理的条件は、わたしの中の精神的なまなざしに適うものではない。地平は遠く、また球体(真理)は背後に遠く位置している。
「精神界に重力は通用しない」というカフカの言葉を引用するまでもなく、心は制約を受けない自由な世界である。(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)
視点が地平線上だとすれば、上へいくに従って建屋は小さくなる。それが逆に拡大・巨大化されているからで、つまりは遠近法の無視に因している。
人は条理より不条理に違和感を覚え関心を抱く。不審を抱きつつも眼差しは建屋の上方に釘付けになり、立地の建屋を見過ごしてしまう傾向がある。もちろん認知していないわけではない、しかし、曲芸の危険を感知しながらも、心のどこかで不安を打ち消し大丈夫なのだと言い聞かせる心理に似ている。この場合、建屋が宙に浮いているのでない限り倒壊は免れず、不安定な建てることも不可能な空想上の建屋でしかない。
にもかかわらず、空の不穏も建屋の不気味さに共鳴するような彩色である。それに建屋の屋根から出ている煙突状のものは何だろう。下の方にある煙突状のものが火を噴いたなら上階の建屋は燃えてしまう。それに建屋にぶら下がる形での建造物など、この重力圏内ではありえないし、あるとするならば、よほど軽量であるか、よほど強力な支えが必要である。見るからに危険を孕んだ(描いたからには、あるかもしれないと思わせる)とんでもない空想の産物である。
一見透視図法にかなっている風な様相を呈しているが、それ以前の問題として、狭小に見える建屋にこれだけの建屋を上に重ねることは絶対に不可能である。
だから、「心のまなざし」と銘打っているだろうといえば、それまでである。
自分の心は、こんな風である。つまり、嘘、虚像、不可能、でたらめを重ねている。わたくしは、わたくしという一個の人間にはとても支えきれないような虚空間を建造している。重力圏にある地球の物理的条件は、わたしの中の精神的なまなざしに適うものではない。地平は遠く、また球体(真理)は背後に遠く位置している。
「精神界に重力は通用しない」というカフカの言葉を引用するまでもなく、心は制約を受けない自由な世界である。(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)