続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『心のまなざし』

2015-04-30 07:11:49 | 美術ノート
 聳え立つ建屋、どういうわけかこの作品を観るものの眼差しは上へ導かれる。上にいくに従って衝撃的だからに違いない。
 視点が地平線上だとすれば、上へいくに従って建屋は小さくなる。それが逆に拡大・巨大化されているからで、つまりは遠近法の無視に因している。
 人は条理より不条理に違和感を覚え関心を抱く。不審を抱きつつも眼差しは建屋の上方に釘付けになり、立地の建屋を見過ごしてしまう傾向がある。もちろん認知していないわけではない、しかし、曲芸の危険を感知しながらも、心のどこかで不安を打ち消し大丈夫なのだと言い聞かせる心理に似ている。この場合、建屋が宙に浮いているのでない限り倒壊は免れず、不安定な建てることも不可能な空想上の建屋でしかない。
 にもかかわらず、空の不穏も建屋の不気味さに共鳴するような彩色である。それに建屋の屋根から出ている煙突状のものは何だろう。下の方にある煙突状のものが火を噴いたなら上階の建屋は燃えてしまう。それに建屋にぶら下がる形での建造物など、この重力圏内ではありえないし、あるとするならば、よほど軽量であるか、よほど強力な支えが必要である。見るからに危険を孕んだ(描いたからには、あるかもしれないと思わせる)とんでもない空想の産物である。

 一見透視図法にかなっている風な様相を呈しているが、それ以前の問題として、狭小に見える建屋にこれだけの建屋を上に重ねることは絶対に不可能である。


 だから、「心のまなざし」と銘打っているだろうといえば、それまでである。

 自分の心は、こんな風である。つまり、嘘、虚像、不可能、でたらめを重ねている。わたくしは、わたくしという一個の人間にはとても支えきれないような虚空間を建造している。重力圏にある地球の物理的条件は、わたしの中の精神的なまなざしに適うものではない。地平は遠く、また球体(真理)は背後に遠く位置している。

 
「精神界に重力は通用しない」というカフカの言葉を引用するまでもなく、心は制約を受けない自由な世界である。(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『冬のスケッチ』97。

2015-04-30 06:51:58 | 宮沢賢治
三四   何座だらうともう一遍そっちを見ましたら
     こんどはもうぼんやりした雲がいっぱいで
     遠くを汽車がごうとはせました。


☆過(罪とが)で挫(くじけること)が溢(いっぱいある)。
 それを片(二つに分けた一方)に現わし、運/めぐらせている。
 祈り(信仰)は、それを赦(罪や過ちを許す)。

『城』1951。

2015-04-30 06:29:08 | カフカ覚書
けれども、なにより困ったことは、もしやわたしのためにクラムにたいしてまずいことをなさって、彼に会うチャンスをなくしてしまわれたかもしれないということですわ。あなたがたえずクラムに会いたいとおもっていらっしゃったのは、じつはくらむの気持をなんとかしてなだめようと精いっぱい努力してくださっていたのですもの。それで、わたしは、自分に言いきかせました。-


☆わたしのために、あなたはクラム(氏族)の過去に対して何かを抱いている。あなたがたえずクラム(氏族)に会いたいと思うのは、無力かもしれないが、なんとか和解させようとしたからです。

マグリット『透視』

2015-04-29 05:53:19 | 美術ノート
 鳥かごと卵の親和性・・・ここにどんな反応が起きているのか。
 卵を凝視しながら画布に羽を広げて飛び立とうとする成鳥(飛び立つときの脚?)を描く画家・・・未来の透視?


 この作品を透視すると、もっと違う光景が見えてくる。

 先ずパレットを持つ指先を見ると画家の視点はかなり下方にあることが分かる。とすると、卵の位置するテーブルは前方に傾いでいることになり、当然、卵は転げ落ちる(はずである)。
 次に成鳥が描かれつつあるキャンバス、これもまたおかしい。よく見ると、イーゼルから浮いているし、画家の方へわずかに傾いている。当然、倒れこむ(はずである)。

 この描かれた空間そのものが倒壊の危機を孕んでいる。
 にもかかわらず、それを止めているのは画家の落ち着き払った凝視の眼差しの向くところは卵であり、描かれつつある成鳥というこの連鎖である。この強力なインパクトに、鑑賞者は他の非常事態を見逃してしまうという具合。
(しかし画家は、卵の方を向いてはいるが、瞳は卵を見ていない。沈思黙考、何かを熟慮の態である)

 マグリットの忍び笑い、否、高笑いが聞えてきそうな作品である。
 この作品の惹き起す反応、親和性はユーモアかもしれない。

『よく見てごらんよ』
 透視というより、普通の眼差しでね。マグリットの作品には喜劇の台本が隠れている。(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『冬のスケッチ』97。

2015-04-29 05:44:08 | 宮沢賢治
        *
  こめかみがひやっとしましたので
  霰かと思って急いでそらを見ましたら
  丁度頭の上だけの雲に穴があき
  さびしい星が一杯に光って居りました。
  それからまたそのことを書きつけて


☆太陽の示す救いが現われる。
 死の途(みち)は等(平等)であるように常に運/めぐらされている。
 訣(人と別れる)象(すがた)は逸(かくれている)けれど、拝(敬意を表しておじぎをする)考えの意(気持ち)を書いている。

『城』1951。

2015-04-29 05:31:29 | カフカ覚書
あなたは、わたしのためにいろいろ心配してくださって、職を求めてやっさもっさなさらなければならなかったし、村長にたいしては不利な立場に立たされたし、学校の先生の言いなりにもならなければならなかったし、助手たちにも勝手な真似をされるままになっていらっしゃいました。


☆あなたは、わたしのために心配してくださったり、心ひそかに奮闘し、教区の長に対しては死の側に立ち、空虚を押さえ込まなくてはならなかったので、脳(知覚)は、なされるがままになり、ひどく気分を害してしまいました。

マグリット『喜劇の精神』

2015-04-28 06:52:46 | 美術ノート
 折りたたみ、ハサミで模様を切り取った紙のようなものが、さらに人の形に似せて垂直に立っているという図である。

『喜劇の精神』と銘打っている。この存在はなにか?
 床面(大地)と壁(虚空)、人型の紙の影は床面で切れている。つまり、壁とは相当な距離があるということである。どのくらいかは分からないが、少なくともこの者の身長を映すべき影の長さより遠く離れている。
 断崖絶壁に立っているという解釈を許される範疇である。

 白は明白性を現わすかもしれない。喜劇というからには喜劇を演じている精神はこのようなものであるということで、この作品には喜劇の精神が表明されているという提示に他ならない。

 流す血も、傷を受ける肉体もない。吹けば飛ぶような薄っぺらな紙、自然に劣化したという状態ではない。しっかり立ってはいるが、他者(観客)の手で折り曲げられ切り刻まれている。
 つまり、本来の血肉のたぎる自分を捨て、観客の眼に曝され、観客の眼差しに応えている存在。喜劇は演技者と観客の双方の眼差しによって成立するものであれば、観客は彼(役者)を通して向こうを見透かしている。

 ぎりぎりのところで辛うじて立っている。一見模様に見える知的細工のランダムな穴は、彼(役者)への遠慮会釈のない辛辣な眼差しによるものである。
 人の形にすれば人に見えるマジック、人でさえないのかもしれない。
 ここまで捨て身になることが喜劇の精神である。かくいうわたし(マグリット)も、そんな風に曝されている。
 崖上に辛うじて立っている危うい存在の正体を誰が知るだろうか、喜劇の精神の秘密である。(写真は国立院美術館『マグリット展』図録より)

『冬のスケッチ』1950。

2015-04-28 06:24:38 | 宮沢賢治
        *
  西公園の台の上にのぼったとき
  大きな影が大股に歩いて行くのをおれは見
  た。


☆済(すくう)講(はなし)を掩(かくしていること)が、題(テーマ)の常である。
 題(テーマ)は永(とこしえ)の諦(真理)として、個(一つ一つ)が普く講(はなし)に現われる。

『城』1950。

2015-04-28 06:09:52 | カフカ覚書
あなたは、わたしの横にうずくまって、これですべてが無に帰したような眼つきをしていらしゃいましたわね。事実、それからは、自分では精いっぱい努力をしたつもりなんだけれど、、あなたを助けられないどころか、足をひっぱってばかりいるような結果になってきました。あなたはいまでも見くびっていらっしゃいますが、なかなか手ごわい敵なのですよ。


☆どうして先祖の光景は、わたしのそばでひざまずき絶望的な眼差しをしていたのでしょう。どうして現実の様子も緊張させ助けるどころか妨げになったのでしょう。言葉はあなたの敵になってしまいました。あなたは(言葉を)過小評価していますが、なかなか力のある魔物なのですよ。

自殺者の心理。

2015-04-27 07:29:39 | 日常
 昨日の帰り、JR鎌倉駅で電車を待っていると
「お客さん、線路に降りないで下さい。危ないですよ」とアナウンスがあった。(落し物でもしたのかな)と思っていたけれど・・・。
 すると、いきなり警告ブザーが鳴り響いた。赤いランプの点滅、《何が起きたの?》
 駅構内の外れ、線路の真ん中に人がうつ伏せに寝ている。駅員さんに近づいて彼(もしくは彼女)を抱え上げようとしたが、頑として動かない。懸命に移動させようとしているが逆らう力に抗することが出来ないでいる。もう一人の駅員が応援に来たが、どうにもならずジタバタしている。
(まさか、二人がかりなら)と安堵しているけれど、一向に警告音が鳴り止まない。ホームの人たちも線路側に身を乗り出して現場を覗き込んでいるので「危ないですから、黄色い線を出ないでください」とアナウンスが入る。

 このため電車はストップ、駅のホームは人が溢れかえってきた。気が遠くなるような、そこはかとない苛立ち。
 どのくらい経ったろうか、ようやく「保護されましたので、電車が参ります」というようなアナウンスが流れた。

 なぜ電車の線路なのか、なぜ衆目の前なのか、混乱し正気を失った人に問う言葉ではないかもしれない。

 ようやくやって来た電車に乗り込み走り始めた車窓から、救助隊のタンカーを見た。
 そうして、呆然と自殺願望者を見送った。

《何もかもどうでもいい》生命に未練はないという自暴自棄、《しかし、誰かが助けてくれるかもしれない》という一縷の望み。 錯乱の胸に去来したものは何だったろう。

 幸か不幸か、悲しみの果てというものを、わたしはまだ知らないのかもしれない。