「あいつは十五分進んでゐるな。」それから腕時計の竜頭を引っぱって針を直さうとしました。
☆自由な語(言葉)で捕らえる。
真(まこと)は一つである。
字で継(つなぎ)留めるのは、禱(神仏に祈ること)に因る自記だからである。
窓外の景色、光景は通常では人が登れないような勾配の高い山々、断じて登れない山岳に位置している建屋…(どのように建てたのだろう、と驚愕唖然とするような神社はあることはある。想像を超越するような場所)この場合は精神性の高みを示唆している。
そしてその空に浮遊する球体に乗る男は、彼自身を客観的に見ている。あるいは室内の彼が球体の彼を見ている。この対象との対峙が、即ち認識である。
底の底まで見抜こうとする知覚作用。
球体との距離や彼との間隔は、留まるものでなく常に浮遊の状態にあり計測不能かもしれない。
球体に当たる光源はどこにあるのだろう、手前の山は漆黒であり、遠方の山は仄かに明るい(光は後方から射している)。
彼自身が光源であるとするならば、精神世界の仮象であり、窓外とは物理的に矛盾している。
矛盾、即ち否定が前提条件である。
彼はわたくしであるが、わたくしはすべての感覚を以て世界を把握したいと望んでいる。しかし究極、無、あるいは原初に遡っても、未来という時間は見えてこない。有るがまま…今という存在の根拠を模索しているにすぎないのかもしれない。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
過燐酸石灰のヅツク袋
水溶十九と書いてある
☆化(教え導く事)の倫(人の行うべき道)は、太陽で釈(意味を明らかにする)
解(部分部分に分けた)他意を推しはかる。
庸(常に)自由な句(言葉)で書いている。
きみを不安にさせないために、彼自身も、縉紳館にとどまっているが、これは、ほんの一時のことにすぎない。つまり、城から新しい知らせを受けとり、きみの手で風邪を治してもらうまでのことなんだ」
☆あなたを不安にしないために、彼自身もとどまっているが、これはただ仮に過ぎず、新しい知らせを城(本当の死)からもらい、自身が冷たくなるまでのことなんだ。
赤シャツは右腕をあげて自分の腕時計を見て何気なく低くつぶやきました。
☆釈(意味を明らかにする)幽(死者の世界)は一つである。
弐(二つ)の文を一つの字で継(つなぐと)現れる化(教え導くこと)がある。
記の態(ありさま)である。
『終わりなき認識』
窓外の景色である。
窓外にある球体は、宙に浮いており、その上に人が遥か彼方を見ているという光景。
室内には《わたくし》がいる、室外の男も《わたくし》である可能性が高い。つまりわたくしが、わたくしを見ているという図である。
わたくしを客観的に眺める。彼は存在しているが、きわめて危うい立ち位置であるのに、彼自身は気づくことはないと思われる。浮遊、重力を無視した精神世界から、山また山の人智で築き上げた観念の呪縛で構築された世界を見ている。対峙していると換言した方が適切かもしれない。
物理的に正否を問う答えを、浮遊する球体に乗った彼(わたくし)はその真偽について問いを繰り返している。決定的でないのは、この浮遊する球体に《絶対》あるいは《永遠》の保証がないからである。
彼(わたくし)と、わたくしの考えの差異あるいは亀裂はどこにあるだろう。
彼(わたくし)は、イメージにすぎないのだろうか。空想は事実ではないとされている。
存在と非存在の狭間をつなぐもの、媒体は思考(精神世界)にのみ存在する仮象なのだろうか。
わたくしは常に彼(わたくし)を見続けているものである。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
(三時の次あ何時だべす)
(五時だべが ゆぐ知らない)
☆太陽の慈(愛しみ)を示す化(教え導くこと)を語(言葉)で致(まねく)。
だが、それだけのことなのさ。きみなんかいまの彼にとってはまるで意味がないのだ。きみをこの縉紳館に世話してやったことって、彼の主要な任務の残務整理みたいなものにすぎない。
☆しかし、すべて今は重要ではない。ただ敢えて言えば、主要な課題としてきみをその中に入れたにすぎない。
その盤面は青じろくて、ツルツル光って、いかにも舶来の上等らしく、どこでも見たことのないやうなものでした。
☆番(かわるがわる行い)綿(細く長く続く)講(話)であると、吐く。
雷(神なり)の照(あまねく光が当たる=平等)が透けて現れる。
《蛇のようにくねった長く続くらしい蝋燭 VS パイプに入った長く太い自身の鼻》
この二対の対峙である。
今も長く信仰され読み継がれている聖書の見解は指針である。しかし、わたしはそれに対し異議を抱いている。疑問は大きく膨らんではいるが、それを表に出すことはタブーに違いないし、平穏を望むわたしにとっては出来ない相談である。
物(世界)の見方、単にそれに尽きるかもしれない。
わたしはわたしの考えを内に秘めているが、時としてそれは作品に露呈するやもしれない、そう意図して描いているからである。
闇雲に抗っているわけではない、深い感銘(肯定)の後の否定である。
しかし、わたしはそれを語ることはない。
哲学者としての逡巡、いつかこのパイプから自身の見解が破裂をきたすかもしれない。
「これはパイプではない」のだから。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)