続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)葡萄垂れ。

2022-01-31 07:08:51 | 飯島晴子

   葡萄垂れ天上をゆく強き櫂

 葡萄垂れはブ・トウ・スイと読んで、武、党、推。
 天上をゆく(天上行)はテン・ショウ・アンと読んで、諂、掌、案。
 強き櫂はゴウ・トウと読んで、傲、頭。
☆武(強い)党(仲間)を推(前におしだし)諂(へつらう)。
 掌(支配する)案(考え)で傲(偉そうにする)頭(トップ)。

 葡萄垂れはブ・トウ・スイと読んで、舞、踏、粋。
 天上をゆく(天上行)はテン・ショウ・コウと読んで、添、娼、行。
 強き櫂はキョウ・トウと読んで、嬌、蕩。
☆舞踏に粋を添える娼(ホステス)の行い。
 嬌(艶めかしく)蕩(揺れ動く)。

 葡萄垂れはブ・トウ・スイと読んで、部、統、遂。
 天上をゆく(天上行)はテン・ショウ・コウと読んで、展、承、講。
 強き櫂はキョウ・トウと読んで、協、謄。
☆部(区別して)統(ひとすじにまとめること)を遂(やりとげる)。
 展(顧みて)承(受け継ぐ)講(話)を協(併せて)謄(書き写す)。


M『手の力』

2022-01-31 06:42:27 | 美術ノート

   『手の力』

 水平線の見える海の手前に、石を積んだ壁があり、その上に城・コップ・薔薇一輪が並置されている。

 石壁の上のコップと薔薇一輪、そして小さな城。
 大きな城であれば、巨大なコップと巨大な薔薇一輪、それにつれ壁の石はとてつもなく巨大な石になる。

 脳裏に刻み込まれたデータの集積、常識という尺度がある。それは決定的といってもよく、それを崩すのは難しく、不可能といってもいいかもしれない。

 しかし、『手の力』は無謀にもそれを実現する。絵の中で成せる手の力(描写)は総てを可能にし、虚構を作り上げる。
 絵に限らず、精神界では『手の力』は絶大である。


吉川宏志(私的解釈)鳥の見しものは。②

2022-01-31 06:15:07 | 吉川宏志

 鳥の見しものは見えねばただ青き海のひかりを胸にいれたり

(鳥の見しもの)は見えない(解らない)。ならば、(ただ青き海のひかりを胸にいれたり)という。

 鳥はわたしの視界の中の点である。その鳥を含めた視界、ただ青く光る海が続く水平線(空と海)を見つめ胸に入れている(感じている)。

 鳥という点に対し海のひかりという無限は、つながっており循環している。
 茫漠とした無限に広がる空と海との巨きな空間(世界)に対峙している自分。

 あの点にしか見えない鳥はわたし自身でもある。わたしと鳥との距離は海のひかり(世界)の支点であるほどに、世界は広く巨きい。わたしは、胸に収めた《海のひかり》のなかで《中心》に座している。


『飯島晴子』(私的解釈)山晴れて。

2022-01-30 06:48:02 | 飯島晴子

   山晴れてとうがんの尻白きこと

 山晴れてはサン・セイと読んで、燦、星。
 とうがんの尻(冬瓜尻)はトウ・カ・コウと読んで、禱、果、幸。
 白きこと(白事)はハク・ジと読んで、迫、事。
☆燦(きらきら光る)星に禱(祈る)果(結果)、幸せが迫(近づく)事がある。

 山晴れてはサン・セイと読んで、算、成。
 とうがんの尻(冬瓜尻)はトウ・カ・コウと読んで、当、果、講。
 白きこと(白事)はハク・ジと読んで、白、治。
☆算(見当をつけると)成(出来上がる)。
 当(そうあるべき)果(結末)の講(話)が白(あきらかに)治(おさまる)。

 山晴れてはサン・セイと読んで、惨、逝。
 とうがんの尻(冬瓜尻)はトウ・カ・コウと読んで、悼、苛、慌。
 白きこと(白事)はハク・ジと読んで、薄、事。
☆惨(いたましい)逝(人の死)の悼(死を悲しむ)。
 苛(むごさ)に慌(うろたえる)。
 薄(めぐまれない/気の毒な)事である。

 山晴れてはサン・セイと読んで、三、省。
 とうがの尻(冬瓜尻)はトウ・カ・コウと読んで、問う、化、更。
 白きこと(白事)はハク・ジと読んで、迫、字。
☆三つを省(かえりみて)問う。
 化(形、性質を変えて別のものになる)で更(入れ代わり)迫(近づく)字がある。

 山晴れてはサン・セイと読んで、賛、青。
 とうがんの尻(冬瓜尻)はトウ・カ・コウと読んで、鞜、歌、稿。
 白きこと(白事)はハク・ジと読んで、博、示。
☆賛(たたえる)、青鞜(婦人月刊誌/平塚らいちょう)の歌稿(草稿)。
 博(大きく広がること)を示(教える)。


吉川宏志(私的解釈)花水木の道

2022-01-30 06:09:35 | 吉川宏志

 花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった

 『あれ』という指示代名詞、読み手には不明な時空である。花水木の道という線状の任意の点は作者にも読み手にも遠く、作者にとっては過去であり、読み手にとっては未知の場所である。
 だから、(あれより長くても短くても)という距離・時空は感覚的な指示にすぎず、特定は不可能に違いない。逆に言うと(長くても短くても)は同義である。

 つまり、愛を告げようと一心に思いを巡らし歩いていたけれど、先走る思いに比して現実の言葉は内に秘められたままで告げることがかなわなかった、という。

 
 二人で肩を並べ歩いた思いの募る緊迫の時間、あれは花水木の道だったという鮮明な記憶、秘めたのか隠したのか・・・ついに言葉にできなかった重い時間が、その距離にあったことは間違いない。
 (長くても短くても)という表現は、どこか気持ちがつまずくような高揚感があり、言いだせなかった時に対する《愛着の思い》が溢れている。


今日の予定。

2022-01-29 07:19:43 | 日常

 この状況である、てっきりイベントは中止だと思っていたら実施とのこと。

 テンションはだいぶ下がったけれど、今日一日は紙芝居講演で過ごす。わたしの実演時間はほんの6分ほどだけど窓の開け閉め(換気)やら消毒やらで忙しいことになりそう・・・。

 いつも通りに過ごすというスタンス、だから朝のラジオ体操も中止することなく続いている。コロナの猛威、いつまで続くんだろう。
 コロナ禍の疫病蔓延、何か見えない鎖で拘束されているような感じである。老若男女、だれにとっても辛い経験である。


 わたしが演じる紙芝居は矢崎節夫・作の「はるのにおいがするよ」。
 早く本当の春(収束)が来るといいな、と願っている。

 


『飯島晴子』(私的解釈)上の池。

2022-01-29 06:53:30 | 飯島晴子

   上の池下の池とてひぐらしの

 上の池はショウ・チと読んで、衝、千。
 下の池はカ・チと読んで、荷、知。
 ひぐらし(蜩)はチョウと読んで、兆。
☆衝(重要)なのは千(たくさん)荷(身に引き受けること)である。
 知(心に感じる)兆(きざし)がある。

 上の池はショウ・チと読んで、章、質。
 下の池はカ・チと読んで、化、致。
 ひぐらし(蜩)はチョウと読んで、調。
☆章の質(内容)は化(形、性質を変えて別のものになる)で致(行き着かせ)調(整える)。

 上の池はジョウ・チと読んで、情、痴。
 下の池はカ・チと読んで、過、恥。
 ひぐらし(蜩)はチョウと読んで、懲。
☆情痴(色情に溺れて理性を失うこと)の過(あやまち)は恥ずかしい。
 懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)。

 上の池はショウ・チと読んで、止揚、質。
 下の池はカ・チと読んで、加、知。
 ひぐらし(蜩)はチョウと読んで、調。
☆止揚(アウフヘーベン)の質(内容)は加(その上に重ねる)知(物事を考える能力)で調(整えること)である。


吉川宏志(私的解釈)鳥の見しものは。

2022-01-29 06:19:34 | 吉川宏志

 鳥の見しものは見えねばただ青き海のひかりを胸に入れたり

 ずっと向こうに見える鳥、彼が見たものは何だろう。知る術もなく鳥を傍観している。
 そしてわたしは、ただ青い海のひかりを胸に収めている。

 鳥と海との交錯する空間距離。見るというのは直線的時空である。鳥の見ている方向と、わたしの鳥を見る視界が一致することは無い。

 鳥は他者である。万人それぞれが異なる視野で異なる対象をまなざしに収めている。小さな目という器官に絶対の信頼を置いているが、それぞれ各人もって非なる世界を見つめており、潜在意識に合致はない。
 現象は揺らぎ転移する。動く雲の如くであれば、それぞれが見る現象には差異、あるいは隔絶が生じる。

 鳥の見しものを推しはかる術なく、わたしは海のひかり(光そのものは見えない)を胸に入れたという認識。
 あるがままの存在を肯定し、海のひかり(見えているようで見えていない実態を把握しがたい対象としての雰囲気)を心象風景として胸に刻んだことである。


『飯島晴子』(私的解釈)人の身に。

2022-01-28 07:28:13 | 飯島晴子

   人の身にかつと日当る葛の花

 人の身はジン・ミと読んで、刃、実。
 日当るはジツ・トウと読んで、実、等。
 葛の花はカツ・カと読んで、割、果。
☆刃(はもの)で実をカット、実に等しく割(二つに割れた)果(果物)である。

 人の身はジン・シンと読んで、腎、真。
 日当るはジツ・トウと読んで、日、透。
 葛の花はカツ・カと読んで、活、火。
☆腎(大切)なのは、真(真理)である。
 日(太陽)は透(すかして見える)活(生きた)火である。

 人の身はジン・シンと読んで、訊、審。
 日当るはカ・トウと読んで、果、問う。
 葛の花はクズ・カと読んで、くず、過。
☆訊(問いただし)審(つまびらかにして)問う。
 クズの過(あやまち)がある。

 人の身にはジン・シンと読んで、尽、真。
 日当るはジツ・トウと読んで、実、套。
 葛の花はカツ・カと読んで、括、歌。
☆尽(すべて)真実(本当のこと)を套(おおって)括(まとめた)歌である。


吉川宏志(私的解釈)隠すのは。

2022-01-28 06:46:07 | 吉川宏志

 隠すのは秘めることより苦いかな銀杏の樹皮をぬらしゆく雨

 隠すことと秘めることに差異はあるだろうか。隠すのは秘めることより苦いのではないかという作者の心情である。
 見つからないように悟られないように隠すことは、外からわからないように内部に隠しもつことと同義である。(確かにニュアンスは微妙に違う)
 しかし、作者は言い切っている。《隠すのは秘めることより苦いかな》と。

 銀杏の樹皮を濡らしゆく雨、銀杏の樹皮が主語ではない、雨が主体である。
 雨は例えば、彼女かもしれない。(銀杏の樹皮は作者の比喩か)
 銀杏の樹皮が濡れてゆく様子を改めて見たことがないけれど、濡れても濡れなくても樹皮は樹皮という大雑把な感想が普通であるが、ここは恋情の高まりの時間の経過を言っている。

 しかし、ぬらしゆく雨(彼女)によってわたし(作者)の心は、隠すのは秘めることより苦い(苦しい、辛い)と、判断が朦朧とするほどに彼女への愛が高まるのを隠し切れないでいる、否、秘めている。