『再開』
台の上に高台付きの植木鉢(そんなものはないが)に本来あるであろう草花はシルエット化され異なる景に置換されている。
※エデンの園の中央に植えられた命の木(あるいは善悪を知る木)を彷彿とさせる景である。
バックは暗色であり、植木鉢の傍らには鳥の巣に入った三つの卵がある。
これが『再開』の景だというが、謎のような景である。
純白の台座を持つ植木鉢は、小さな世界つまり狭い領域の崇拝敬意としての表現ではないか。
現実の草花を圧して異なる景を創出、一本の樹は雄々しく空に延び美しい景をなしている。しかし、それはイメージにすぎない。
鳥の巣に入った鳥の卵こそ現実である。しかし、イメージの世界に押され、主張することなく傍らにただ在るだけである。
イメージは(幻想)は現実を凌駕する。果たして現実は幻想から現実(生命の誕生の真実)を取り戻すことができるだろうか。現実には証拠がある(卵が先か・・の問題はさて置くとして)が、人の心はパンのみで生きるわけではない。生きる糧(信仰)は現実を回収し、異世界の扉を再開させる。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「山ねこさまはいますぐに、こゝに戻つてお出やるよ。おまへは一郎さんだな。」
一郎はぎよつとして、一あしうしろにさがつて
「え、ぼく一郎です。けれども、どうしてそれを知つてますか。」と言いました。するとその奇体な男はいよいよにやにやしてしまひまいました。
☆太陽の霊(魂)を推しはかる。
逸(隠れた)糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)、逸(隠れた)糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)、逸(隠れた)糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)の質(内容)が現れる稀(まれ)な他意の談(話)である。
オルガに案内されて、中庭を通り、垣根のほうへ歩いていくあいだ、Kは、自分のことをいろいろ心配してくれるオルガをてっとり早く安心させてやろうとおもって、自分はあんたが話のなかでちょっとした手管を弄したことに全然気をわるくはしていない、自分にはあんたの気持ちがよく理解できるし、あんたが自分によせてくれている信頼にお礼を言う、あのような話をしてくれたのは、とりもなおさず信頼のあらわれなのだから、と言い、バルナバスが帰ったら、夜中でもいいから学校へよこしてほしい、と頼んだ。
☆オルガはハロー(死の入口)を通って見物人を連れて行き、Kをさがし、あなたたちの心配を鎮めるために、あなたたち氏族の術策の話をした。全く不都合はなく、非常によく理解できた。
あなたの話によって耐え忍んでいると、バルナバスが死を送り帰ってきた小舟がやはりまだありました。
『同族意識』
①直立(?)しているであろう魚の上半身(?)、海と空(水平線)、球体(真理の具現)の傍らに人が二人(男女?)が描かれている。
②魚と球体は非常に厳密に描かれているが他は曖昧なムードである。
③人は地面(砂地)に足をつけているように見えるが、波打ち際はずっと手前である。
海中に生息する筈の魚が陸に直立し、陸地に立つはずの人が海上に浮いているということだろうか。まさしく不条理である光景と言わねばならない。
球体(真理)と人物、そして魚の大きさの比較を限定できない。人物を基準にしても距離を考慮すると正しい判定は難しい。
この関係性を以て『同族意識』と名付けている。魚と人物は生物という性質を共有しているが、同族/Familyという概念では括れない。(というのは単に観念に過ぎないのか…)しかも魚は、魚の生息における常態ではない。
全く大きな分類、世界(たとえば地球)を丸ごとFamilyとしてしまえば、その結論に行き着くかもしれない。
矛盾や不条理の暴力的な肯定、総ての否定的条件を超える精神(イメージ)の領域においては、究極、有り得ない世界の展開を共有する約束こそが『同族意識』である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
一郎は気味が悪かつたのですが、なるべく落ちついてたづねました。
「あなたは山猫をしりませんか。」
するとその男は、横眼で一郎の顔を見て、口をまげてにやつとわらつて言いました。
☆逸(隠れている)糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)の祈りは、魅(人の心を惹きつける)。
和(争いを治める)絡(筋道)がある。
太陽は平(平等)であるという談(はなし)の応えである。
逸(隠れた)糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)の願い(信仰)が現れる講(話)は、幻である。
それから、この家から出るのにもうひとつ出口はないかとたずねた。中庭を通っていく出口があった。ただ、隣家の庭の垣根を超えて、庭を通りぬけないと、道路に出られないということだった。Kは、そうしようとおもった。
☆この一族から出るのに第二の出口はないかとたずねた。ハロー(死の入口)を通る終わりはないが、小舟との結びつきを制御し、この結びつきを通り抜け、罰を受け入れる。Kはそうしようとおもった。
『真理の探求』
石壁の室内に魚が倒立しており、窓外には薄曇りの空と海が見える。
この景をもって『真理の探究』としている。
①魚は自らの意志をもって立ち上がる姿勢をとることは絶対に不可能である。
②有機質である魚が、無機質な質感に変換されている。
③魚は海ではなく床と石囲いのある人為的な空間に存在している。
④魚の大きさに関しては、人物に相当する大きさだと想像される。
全てが不条理であり、一般的に虚偽とみなされる景の在り様である。否定を重ねても真理に近づくことは決してない。
では何故これが『真理の探究』なのだろうか。逆説の根拠も相対的な観点もなく、ただ絶対に有り得ない光景なのであるが、《絶対に無い》という観点からすれば、それはある意味《真理》としての現象かもしれない。
極端な質的変換は、精神の自由の表明であり、一種の解放された世界の提示でもある。
窓外の曖昧な空と海の景、しかし、水平線の真理だけはこの地球上における現実であり真理であるから、画面全体としては矛盾を孕んだ景であるとも言える。
真理は探究されるべきものであり、完全な証明へは辿りつけないということの証明かもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)