一歳九か月のケイちゃん、忙しく動き回り、手あたり次第物を引き出していく。触ると危険なものなどは高所にあげたり隠しているけれど、気がつかないものもあって、孫が引き上げた後、(さて、あれはどこ?)という混乱が始まる。
大体のものは収まるけれど、今回は(はて、腕時計はどこ?)
記憶力が著しく低下している高齢者のわたし、どうしても思い出せない。(どこかに入れた、それもごく至近なはず・・・)
すでに五日も経過しているのに、いまだ行方不明の腕時計。
どこへ行ったの?お願いだから戻ってきて!
『近接する金属の中に水車のある独身者の器具』
不明の題名である。近接する金属(隣金属)って何? 水車のある独身者の器具って何?
独身者という言葉をよく使うが、一個の人でなく独身者である意味も不明である。独身者という限定は結婚を前提とした呼称であり、結婚していない人という意味であるが、それがもたらす特別な意味を見いだせない。
半円形の弧を描いた金属(鉛)を近い(隣)と感じるのも、遠い(離れている)と感じるのも自由な感想であるのに、あえて《近接》という不明(無意味)。
その中にある水車も、平行・直角という基本を微妙に外しているように見えるし、車輪の軸も支えられていないのではないか。
水車にはそれと気づかないほどの、しかし決定的な不備がある。近接する金属という強力な囲いによって、その印象は掩蔽されているが、崩壊を余儀なくされる条件は用意されている。
金属とガラスは組み合わされているが、金属の方に視点を向けさせている。破壊を拒む強いイメージの金属を前面に押し出した題名である。
回らない水車、崩壊を危惧される状態を隠した水車は弱体であるが、それを囲う金属は強い物質である。流れる水がなければ水車は無用の長物であり、保護するかに見える金属の囲いも無意味に帰する。
独身者の器具というが、独身者の器具という不明な要素も浮上しない。独身者は今すぐ結婚すれば、直ちに独身者でなくなり、独身者という言葉は消え去ってしまう。要するに独身者という呼称は、永遠や存続性を持たず、実体のないものに過ぎない。
デュシャンは『無の無の無』の接合を組織し、破壊を内包させている。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」
ジョバンニがこらへ兼ねて云ひました。
☆掩(かくしている)目(ねらい)の衝(かなめ)は、鬼(死者)の赦(罪や過ちを許し)浄(きれいにする)考えが、見えるように運(めぐらせている)。
そのころわたしたちの下請け職人をしていたブルーンスヴィックがいつものようにやってきました。父は、彼に仕事をあたえて、帰らせました。それから、わたしたちは、朝食の席につきました。みんなは、アマーリアやわたしをふくめて、とても元気でした。
☆当時わたしたちを手伝っていたブルーンスヴィックがいつものようにやってきました。父は彼に現場不在を割り当て帰らせました。わたしたちが土地所有者だった時の先の出来事です。アマーリアとわたしたちみんなは非常に活発でした。
ゴオーッと音がした。小高いところにある家の庭の樹が切り倒された音である。
(ああ、あの木…タイサンボク。)
あの下の家に覆い被さるようになっているのかもしれない。翌日には業者が二人がかりで切り落とした枝葉を括りつけていた。
タイサンボクの花は白くて大きくて立派、見とれるほどに美しい。遠景ながら、季節ごとにそれを眺めていたわたし、ざっくり伐られ、樹の切り口だけになった裸木にため息をついた。
小高いところにある家の住人をわたしは見たことがないが、下の空き地で草取りなどをしていると、「もうそろそろ日が暮れるからやめた方がいいんじゃないの」など奥さんの声がし、それに応える旦那さんの声を聴くこともある。一年中草木の手入れに暇がないのかもしれない。
ムクドリが集結する樹もあるし、わたしが落果を拾う梅の木もある。下から眺めてるだけの樹々であるけれど、伐り落とされたタイサンボクを思うと少し寂しい。
『急速な裸体たちに横切られた王と女王』
急速な裸体とは意味不明である。《急速な》というのは、非常に速い様子を言うのであって、急速な発展、急速に接近するなど状況の変移(激変)を指す言葉である。目にも止まらぬ、あるいは目に見えない、つまり視覚に納まりきれない変化を急速という言葉で表す、いわば心理的な表現である。(急速な、には時間が含まれているが、経過を含めた結果的な状況を指す)
裸体たち、何も身に着けていない…無産階級というよりも、単に《無》である人たちが、王と女王を横切るという。
王と女王は、トップ(頂点)であり、多くの物を手に入れている所有者であリ、支配者である。
急速な裸体たちに横切られた王と女王は、急速な王と女王に横切られた裸体たちでもある。究極の《無と有》の関係は急速なという形容によって意味不明な状況を作り出している。
瞬間、何が起きたか分からない。急速という修飾によって裸体たち(無)と王と女王(有)の関係を無に帰している。有るかもしれないが無かったようでもあるという幻惑である。
描かれた作品に、王と女王の肉体を想起させるものはなく、多少の暗示はあるが、無機的である。確かに斜めの線条が走り、急速というイメージを醸し出しているが、題名なしには到底『急速な裸体たちに横切られた王と女王』に結びつく要素はない。
つまり、あたかも無と有が接触するかの空気感を漂わせて、むしろその関係を粉砕しており、有るかもしれないが、無いのである。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
「こゝでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云ひました。
☆照(あまねく光が当たる=平等)の念(思い)の講(はなし)である。
訣(人と別れ)断(たち切られる)死を兼ねて運(めぐらせている)。
「わたしたちを軽蔑している人たちをみんな宗旨変えさせようというお考えでしたら、それこそ大仕事ですわ。と言いますのは、すべては、お城から出ていることなんですから。わたしは、あの朝につづく午前中のことをいまでもよくおぼえています。
☆わたしたちを眠らずに過ごすようにという試みなのは、先祖の過酷な現場不在からです。すべて(死)は、終末(推論)から出ていることですが、わたしは、あの朝につづく調停のことを今でもよく覚えています。
大学卒業時に発覚した病のために就職もままならず定職を断念せざるをえなかったという話に胸が痛んだ。息子の友人であり、子供のころの可愛い面影が目に浮かんだ。
何があるか分からないのが人生かもしれない。
勤務先が自主廃業したため、数学の教師になったAさんの息子さん。突然の病は瀕死の状態に移行したが、受験生に「頑張れ、頑張れ、頑張れ…」とメールを打ち続けながら、自らも闘い、激痛の中に息絶えたという。
悲しみは至る所に隠れている。
自分ばかりが不運と嘆いていたことが恥ずかしい。今、出来ることは苦痛でも何でもなく、むしろ喜びであり、感謝すべき試練なのだと思う。そう思うように無理にも自分を矯正しなくてはという思いがする。
軟弱で風任せのわたし、老いて気弱になっているけれど、世間を見知った分だけ打たれ強い人間にならなくてはと気を引き締めている。
『自転車の車輪』
あたかも何かの象徴のように掲げられた車輪、しかし無用の長物であり、本来スツールの上にこのような形で立つことなどあり得ないものを、人為的な力(横暴)の下にこの形態を保っている。
円、回帰、周遊、入口であり出口である円弧、等分に組まれたスポークの巧妙…これを美とみるか廃棄物とみるかは自由であるが、少なくともこれ自体が機能することはない。
自転車としての働きを失った部品に過ぎない車輪は、どこか物悲しい。羽根のない天使が悲嘆にくれているような淋しい詩情がある。(不完全ながら)という猶予はなく、不完全ゆえの絶望があるのみである。
存在しているが存在の意義を持たない。存在そのものが消去を期待されるような代物としての存在。いわば《無》の領域に隣接した『自転車の車輪』はデュシャンの胸に呼応する虚空への導入口ではなかったか。
《在るけれど、無いもの》への執着であり、一つの眺望である。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)