続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)葵下草。

2021-04-30 07:26:10 | 飯島晴子

   葵下草姉たちの祠膨るゝ

 葵下草はキ・カ・ソウと読んで、鬼、苛、相。
 姉たち(姉達)はシ・タツと読んで、恣、撻。
 祠膨るゝはジ・ボウと読んで、事、謀。
☆鬼が苛(傷つける)相(ありさま)は、恣(勝手なふるまい)を撻(鞭でたたく)事の謀(はかりごと)である。

 葵下草はキ・カ・ソウと読んで、忌、禍、総。
 姉たち(姉達)はシ・タツと読んで、死、立つ。
 祠膨るゝはジ・ボウと読んで、自、防。
☆忌(いまわしい)禍(災害)、総て死(命がけ)で立ち、自(みずから)を防(守る)。

 葵下草はキ・カ・ソウと読んで、記、果、総。
 姉たち(姉達)はシ・タチと読んで、視、質。
 祠膨るゝはジ・ボウと読んで、字、謀。
☆記(書きとめた)果(結果)をすべて視て質(問いただすと)、字の謀(計画)がある。


若林奮 1-1-7〔無題〕

2021-04-30 06:42:05 | 美術ノート

   1-1-7〔無題〕

 とりとめもなく、何と決定づけられるものでもない。現存するようでいて見たことがなく、不可解な断片。手触りもこれと言って記憶の範囲外である。

 しかし、心のどこかで出会ったかもしれず、否定も定かではない。この曲線、連鎖、ぼこぼこした不気味な凹凸、不連続でありながら連鎖していくことを予想させる。確かにこれは断片らしく切断面がある。この先下降していくのか上昇あるいは直進するのかは不明であるが、危ういバランスで立っている。

 もし、精神、感覚に質的変換を施すならば、こんな感想になるのかもしれない。もちろん答えは千差万別、綿などの不安定・不確実であるやもしれない。
 作家自身が感じうる感覚・空気感、世界との対話を凝縮し、手の中に収めるという試みである。

 共通の答えではなく、自身への問いに応えた形態は、転倒を余儀なくされるような、しかし辛うじて鎮座しているという風でもある。経験したことなない手触り触覚は精神に呼応している。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館


『城』3644。

2021-04-30 06:32:40 | カフカ覚書

「そんな言葉はおやめなさい!」と、お内儀は早口で言った。「服のことでは、あなたからもうひと言も聞きたくありません。わたしの服なんか気になさることないじゃありませんか。断然お断りします」


☆「そんな言葉はおやめなさい」女主人は早くも言った。「小舟の暗号よりも軌道の回転が迎えに行き連れて帰るのです。あなたはわたしの回転を悲しまないでください。これだけで、汚点などすべてはあり得ません。当然不可能なことです」


鈴木しづ子(私的解釈) 秋衣。

2021-04-29 14:03:03 | 鈴木しづ子

   秋衣あめの東京はなれけり

 秋衣とは、夏、すでにハゼノキのような紅葉が見られることから名づけられた夏櫨の別称である。
 早くもわたしの心は秋のような小寒い風が吹き、儚く哀しい慕情は雨に濡れている。内なる心の中心、東京と名付けたわたしの心は、彼から離れてしまったに違いない、きっと、そうに決まっている。

 夏の勢いを失いつつあるあなた、魅力と思えたものが衰退していく。あなたはわたしから離れていくのか、いいえ、わたしがあなたから離れてしまったのです。

 本当は・・・、わたしを刺した冷厳の一言に離れざるを得なかったのです。降りやまぬ雨もいつか止むでしょう。


鈴木しづ子(私的解釈)東京と。

2021-04-29 09:53:39 | 鈴木しづ子

   東京と生死をちかふ盛夏かな

 東京は任意の場所であり日本の中心地である。中心はわたし、東京はわたしの心の中心である。
 生死(ショウジ)は、生ある者が三界六道の世界でいくたびも生死を繰り返すことであり、三界とは過去・現在・未来、欲界・色界、無色の界をいい、六道は地獄・餓鬼・阿修羅・人間(ジンカン)・天上の各道をいう。

 わたしは、地獄に落ちようとも、あるいは地獄から這い上がってきた人間であるとしても、その三界六道を決して畏れるものでないと誓う、この燃え盛る火のような激情のさ中に、固く約束しよう!
 飽くなき生への執着、《決して死ぬまいぞ》の思いである。


『飯島晴子』(私的解釈)山水に。

2021-04-29 07:00:41 | 飯島晴子

   山水に零落れにゆく蛾のあらむ

☆三つを推しはかることに身をやつしている我(わたくし)である。

 山水はサン・スイと読んで、三、推。
 零落れにゆく(零落行)はレイ・ラク・アンと読んで、例、絡、案。
 蛾のあらむ(蛾有)はガ・ユウと読んで、俄、游。
☆三つを推しはかる。
 例(たとえ)を絡(結びつける)案(アイデア)が俄かに游(浮かぶ)。

 山水はサン・スイと読んで、惨、衰。
 零落れにゆく(零落行)はレイ・ラク・コウと読んで、零、落、抗。
 蛾のあらむ(蛾有)は、我、憂。
☆惨(いたましく)衰(おとろえ)零(おちぶれて)落(駄目になる)。
 抗(張り合う)我(わたくし)は、憂(心配している)。

 山水はセン・スイと読んで、閃、彗。
 零落れにゆく(零落行)はレイ・ラク・コウと読んで、霊、落、光。
 蛾のあらむ(蛾有)はガ・ユウと読んで、我、誘。
☆閃(きらりと光る)彗(ほうき星)は、霊(魂)のようで、落(もの淋しい)光であり、我(わたくし)を誘(いざなう/惑わす)。


『飯島晴子』(私的解釈)幼年の。

2021-04-29 06:38:26 | 飯島晴子

   幼年の息近々とこれは黒蛇

☆幼い子供が近づいているのは、ミミズではなく、これは危険な黒蛇です。

 幼年はヨウ・ネンと読んで、腰、捻。
 息近々(息近近)とはソク・コン・キンと読んで、即、困、筋。
 これは黒蛇(此黒蛇)はシ・コク・ジャと読んで、施、哭、邪。
☆腰を捻ると、即(すぐさま)困る。
 筋(すじ)を施し、哭(泣く)邪。

 幼年はヨウ・ネンと読んで、要、念。
 息近々(息近近)はソク・コン・コンと読んで、即、渾、混。
 これは黒蛇(此黒蛇)はシ・コク・ジャと読んで、恣、告、邪。
☆耀かなめ)の念(考え)は即ち、渾(いろいろなものが一つに溶け合い)混ざっている。
 恣(ほしいまま勝手に振舞うこと)を告げる邪。

 幼年はヨウ・ネンと読んで、燿、燃。
 息近々(息近近)ソク・キン・キンと読んで、燭、謹、近。
 これは黒蛇(此黒蛇)はシ・コク・ジャと読んで、死、酷、邪。
☆耀(輝き)燃える燭(ロウソクの灯り)、謹(かしこまり)近づく。
 死は酷(むごい)邪。


『飯島晴子』(私的解釈)ぐみの木の下に。

2021-04-28 07:26:11 | 飯島晴子

   ぐみの木の下にしやがんで他力つく

 ぐみ(茱萸)はシュ・ユと読んで、酒
 木の下はモク・カと読んで、睦、呵。
 他力つく(他力付)はタ・リキ・フと読んで、駄、力、夫。
☆酒を愉しみ、睦ぶことを呵(咎める)。
 駄(つまらないことに)力(力を尽くす)夫。

 ぐみ(茱萸)はシュ・ユと読んで、衆、癒。
 木の下はボク・カと読んで、牧、過。
 他力つく(他力付)はタ・リョク・フと読んで、田、緑、普。
☆衆(大勢の人)を癒す牧(牧場)を過ぎると、田の緑が普(あまねく行き渡っていた)。

 ぐみ(茱萸)はシュ・ユと読んでは、須、臾。
 木の下はボク・カと読んで、僕、暇。
 他力つく(他力付)はタ・リキ・フと読んで、他、力、浮。
☆須臾(わずかな時間)僕(わたくし)の暇(仕事のない手すきの時間)がある。
 他力(他人の助力)で浮いた(時間)である。


こんな所でも…。

2021-04-28 07:13:46 | 日常

 隅っこ、コンクリートのほんの隙間、四十年目にして突然芽を出したデイジー。雑草かと思い抜こうとして「?」と躊躇った。やがて、葉が、そして花が、びっくり!!こんなところに咲くなんて、わたしも負けられないね。


若林奮『Valleys』

2021-04-28 06:28:11 | 美術ノート

   『Valleys』

 道は真っ直ぐ続いている、両脇は急な勾配の遮蔽がある。金属質の壁は到底人力では登りきることが困難な勾配である。
 作品は永久に続く状態の一端を切断して見せたものであり、完結ではない。地球は丸いということを知っているが、見渡す限りでは地平線は平らであり、海は水平にしか見えない。
 継続、元に戻る道(通路)の一端であることは、突然の切断面で推測される。
 しかし、突然の開口は《死》であり《生》の出入り口をも示唆している。続行しているが、終末であり発足であるという重複がある。

 美しさの排除、善悪の起伏も消されている。ただ、道が続き、起点と終点の判別を不明にして、存在すべき空間だけが厳然と在る。

 無だろうか、有だろうか。確かに刻まれた時空は、天空に向かって開かれている。とりとめもないほどの解放は自由を保障するが、地上に立つ生きた人間に許された道は一つしかない。しかも掟のようにはだかる壁は頑強であり無言の圧力と拘束がある。

 解放と拘束、始まりと終わり、しかし道は続き歩き続けなければならない。
 作品は、作家自身の人生に対する問いであり答えではないか。


 写真は『若林奮ーVALLEYS』横須賀美術館