毎朝楽しく書いているブログ…もしかしたらどこかでわたしはブログに振り回されているのではないかという気がしてきた。
逸る気持ちを制御する、ブログを書くことがわたしの一日を束縛してるのではないか…。
年の暮れのイベント、大掃除とまではいかないけれど、少しづつの清掃。ビックリするほどのホコリ。
70才、時間がないという焦りがわたしを急かせる…けれど、どこへ向かっているのだろう。
自分が自分らしく人生を全うする、自分が主人公である。その自分がブログなどに支配されているとしたら、本末転倒、自分を見失っていることになりはしないか。
この習慣(ブログ)を全面停止するのは辛い。(今だって通常通りに書きたい気持ちでいっぱい)けれど、あえて余裕を持とう、ブログをしない自分の時間を見つけようと思う。
ゆっくり行く、牛歩の歩み・・・千里の道も一歩から。(老婆の戯言であります)
Run and Rest
ランとレスト、走ることと停止(休息)・・・要するに不連続な時間である。自分の存在が谷底にあるという感覚、落下の失意と飛翔への憧憬。
大いなる天空には限りなく開かれているが、自分の立地点は持続する細い通路に限定されている。阻む壁は不明な領域を隠蔽している。
与えられた道は通過や持続を由とするが、必ずしも地平を見渡し、その自由を所有できるものではない。不明さは虚無かも知れないし、自分を脅かす実在かもしれない。
ここに見る両脇(左右)の勾配は静かなる攻撃にも見える。天(世界)に向かい開かれているが、収縮を余儀なくされるような閉塞でもある。
精神的な時空を物量に置換した景は、脅威を孕んだ日常である。
(写真は横須賀美術館『若林奮VALLEYS』より)
日は今日は小さな天の銀板で
雲がその面を
どんどん侵しかけている
吹雪も光りだしたので
太市は毛布の赤いズボンをはいた
☆化(教え導く)経(常)の実は照(あまねく光が当たる=平等)である。
展(広く見渡し)吟(声に出してうたい)判(可否を定める)
説(話)は綿(細く長く続き)深い。
推しはかる説(話)は恒(一定で変わらない)
他意の詞(言葉)は、亡(死)の風(様子)の釈(意味を解き明かす)。
「だが、だからと言って痛くなかったわけではあるまい。もしかすると、おれは、今後もこんなふうにして、きみにたいするおれの恐怖心とやらをしょっちゅう見せつけてやれるかもしれないんだぞ。
☆それゆえ、少々痛かっただろう。もしかすると、わたしは今後この方法で君に対するわたしの畏敬の念を、しばしば見せるかもしれない。
長い山脈に付属する振動
任意に重ねられた薄い鉄板が台座に間隔を開けて直立している。それらが、両脇の木(山を模したもの)間に、やはり間隔を開けて置かれている。
山脈(山々、山の連なり)に潜む隠れた変移、静けさを保っているが危機をも孕んでいる。動かざる山に内包された振動(呼吸)への恐れと、立ち姿(存在)への敬虔なる祈りの複合。
長い山脈に感じる崇高さへの神秘は、古代古の隆起の激動を孕んでいる。
(写真は横須賀美術館『若林奮VALLEYS』より)
くらかけの雪
たよりになるのは/くらかけつづきの雪ばかり/野はらもはやしも/ぽしやぽしやしたり黝んだりして/すこしもあてにならないので/ほんたうにそんな酵母のふうの/朧るなふぶきですけれども/ほのかなのぞみを送るのは/くらかけ山の雪ばかり (ひとつの古風な信仰です)
☆説(話)を設(こしらえる)也。
要(かなめ)の講(話)の模(ありさま)は、糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)であり、総て太陽の説(話)である。故に普く真(まこと)の考えである。
だいたいからして、あんたは助手がこわいんだ。こわいばかりに、あの人の好いアルトゥルをなぐったんだ」「あるいはな」と、Kは言った。
☆要するに思考は恐怖であり、ただ怖いばかりに所有地の仕方をたたいたのです。「多分」と、Kは言った。
ラジオ体操仲間が階段を踏み外して、《足にひび》が入ってしまった。
手首を骨折して休んでいるメンバーもいる。
他のサークルでも大腿骨骨折で手術リハビリ中のメンバーがいたり、二ヵ月の入院を余儀なくされたメンバーもいるし・・・。
わたしたちの年代の骨の故障劣化は日常化しており、《転ばぬように》が合言葉になっている。