そのうすくらい仕事場を、オツベルは、大きな琥珀のパイプをくはへ、吹殻を藁に落とさないやう、眼を細くして気をつけながら、両手を背中に組みあはせて、ぶらぶら往つたり来たりする。
☆詞(言葉)は弐(二つ)を常に題(テーマ)にしている。
個(一つ一つ)を迫(追い詰め)推しはかるものであると告げる。
講(話)の絡(つながり)の言(言葉)は済(救い)の記である。
霊(死者の魂)である衆(人々)に背(敬意を表し)、喪(心の中)を蘇(よみがえらせる)奥(おく深い)記である。
会話術…お互いの意思疎通の手立て。
巨石が文字の形に組まれているが、この文字の意味を知らない者にとっては何ら意味を成さないものである。
会話とは、そのエリア内の約束事項である。言葉は聴覚で伝達されるが、身体表現や文字という間接的な伝達法もある。しかし大抵の場合、相手との距離が人間的な空間であることが必要であり、作品に見るような超人的な距離間はありえない。
至近距離でこの文字を見た場合、巨石の壁しか見えず理解できない。
遠方からこの文字を見れば、了解できるかもしれないが会話の相手は不明である。
要するに会話の術は存在せず、有り得ないような巨岩石の文字化に畏怖の念を禁じ得ない。会話というより一方的に述べられた神の領域の構築である。
会話術というものは、それほどに《大いなる約束》であるということだろうか。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
蟹の子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなので睡らないで外に出て、しばらくだまって泡をはいて天井の方を見てゐました。
☆解(バラバラに離れた)詞(言葉)で教(神仏のおしえ)を合わせる。
冥(死後の世界)を推しはかることを遂(やりとげる)。
我意を推しはかると、法(神仏の教え)が展(広がり)誠(まこと)が現れる。
もしエルランガーの部屋だったら、おそらく会ってくれるだろうし、べつの役人の部屋だったら、べつの役人の部屋だったら、詫びを言って、出ていくことぐらいはできるだろう。相手が眠っていたら(これが最もありそうなことだが)ドアをあけたことも気づかれずにすむだろう。
☆エルランガーの部屋(課題/テーマ)だったら、おそらく快く受け入れてくれるだろう。別の部屋(課題/テーマ)ならば、謝罪して出ていくことはできるだろう。相手が眠っていたら(永眠)、Kがたずねたことにも気づかれずにすむだろう。
そこらは、籾や藁から発つたこまkな塵で、変にぼうつと黄いろになり、まるで砂漠のけむりのやうだ。
☆腎(かなめ)は片(二つの分けたものの一方)にある講(話)であり、査(調べると)博(大きく広がる)。
人の目線を地上において推しはかると、採石で形作られた文字群は異常に巨大である。この大きさは超人的であり人が為せるものではない。機材を使用しても、その安定度には疑問が残り構築は不可である。
背景の空に漂う暗雲、その向こうの闇は何を暗示しているのだろう。
不穏である。
人がその前に立っても、視野が全体を把握できるとは思えず、REVEを読み取ることはできない。はるか遠くでなければ文字は認識できない。まして共通言語外の人たちにとっては意味にすら辿りつかず危険でしかない。
要するに不可能な文字列であり、人力を超える構築である。
『会話術』の不毛、混沌。人智を超えた言葉の威力。いつか遠い未来にREVEは意味を失い墓標のように地上(荒地)の風に吹き曝され、忘れられる日があるかもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
そのつめたい水の底まで、ラムネの瓶の月光がいつぱいに透とほり天井では波が青じろい火を、燃やしたり消したりしてゐるやう、あたりはしんとして、たゞいかにも遠くからといふやうに、その波の音がひゞいて来るだけです。
☆推しはかる態(ありさま)を並べ合わせる講(話)である。
套(おおったもの)を転(ひっくり返し)整(ととのえる)。
等(平等)を化(教え導く)念(思い)の章(文章)である。
掩(隠したもの)を把(手に取り)温(よみがえらせる)記である。
しかし、廊下のだいたいどのあたりにあったかぐらいは思いだせるだろうとおもい、ここがたぶんエルランガーの部屋だとおもわれるドアをあけてみようと決心した。あけてみるだけなら、そんなに危険なこともなかろう。
☆しかし、いかなる方法をもってしても思いだせないだろうと思い、ここがたぶん虚構の小舟だろうと思われるドア(入口)をあけてみることにし決めた。過度に危険ということもないだろう。
十六人の百姓どもが、顔をまるつきりまつ赤にして足で踏んで器械をまはし、小山のゆに積まれた稲を片つぱしから扱いて行く。
☆等(平等)を録(書き記す)図りごとである。
飛躍した章(文章)は信仰の釈(意味を解き明かす)則(道理)であり、禱(いのり)の記である。
皆(すべて)の章に算(見当をつけ)析(分けることで事柄を明らかにする)
等(平等)を遍(もれなく)扱う講(話)である。
『会話術』
会話とは人と話を交わすことであるが、ここに人は描かれておらず、採石の石を組み合わせた「REVE/夢」という意味を持つ文字が聳え立っているだけである。
会話の術・・・自分と伝える相手がいなくては成り立たない。
身体表現もあるが、ツールとしては「共通言語」が必携である。しかし、この巨大な石を文字に置換する会話などあり得ない。会話はツーカーの呼吸で運ぶもので、石を運ぶような長時間の作業は必要としない。
にもかかわらず、ここに石を置いた理由は何だろう。
石は語らない。石の特性を持って「わたしは岩である」と宣べた神や石を刻むアーティストもいるが、石自体に表現力はない。
しかも、意味が「夢」であることは、自分自身のみの精神現象であり相手との交信はない。民衆が抱く将来の希望という意味もあるが、一方向に向かうもので会話という交信はない。
会話術というタイトルの前に立ちはだかる壁のような『問い』である。
真の会話の不確実性、困難・・・「わたしの問いに答えられるか?」会話の不毛、マグリットの叫びのようでもあり、震撼とした空気に鑑賞者であるわたしは沈黙せざるを得ないのである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)