何思うことなくボォーとしている。連休のせいで、来週は予定が建込み、全ての予定をクリアーできるか否かを今から心配している。
火曜日「七宝焼き」のサークル、水曜日「歩こう会」木曜日「紙芝居」金曜日「彩祥会」土曜日辺りから日赤の赤い羽根募金に回る・・・。
閉じこもりがちのわたしの外出の頻度の高さはプレッシャーである。
元気良く楽しくクリアーしていくファイトがない。ただ心配する杞憂。
昨日の夢見も悪かった、《どうしよう、どうしたらいいの》というところで目が覚めた。
絶対に頑張るという気概がなく(もしかしたらダメかも)という不安にばかり苛まれている。
言葉は元気をくれる?
それなら、元気出して頑張ろうか。ガンバレ、頑張れ、頑張れ、わたし。
『夕べの徴』
黒い山の峰から覗く残光に対して手前の彩色された対象物に射す光は左側からである。光源(太陽)が二つあることはあり得ないので、この景は分断というよりは全くの異世界である。
少し傾いだ赤いフレーム、中のカヴァーは四方に裂けているが、平面に戻ることのない不可逆を暗示しているのかもしれない。
フレームの中の球体と波板の上の球体はリンクしているように見えるのは、波板の上の球体はフレームの中から飛び出したように印象があるからで、球体という等しい形態は精神(魂)の具象化かもしれない。
波板の1つの球体は今しも落下を余儀なくされ、行方知らずになるような予感を秘めている。一方フレームの中の3つの球体は波板(外)へ出ることを裂けて巻かれたカヴァーによって阻まれている。
亡母を追う3人の子供(とりわけ大きいのはマグリット)、中央に立つ樹木は父かもしれない。現世と冥府の中間点(入口)を立脚不能な不安定極まるフレームに仮象した景が浮上する。
総ては根拠のない空想世界であるがゆえに、手前の対象物には存在感を示すものが欠如している。
(母恋い)誰も自分の絵を解釈するなという厳命。マグリットの作品に共通する哀愁の要因はここにあるのかもしれない。
枝はまるで弾丸のやうにまつすぐに飛んで行つて、たしかに子供の目の前に落ちました。
☆死の談(話)を含む秘の講(話)である。
死における教(神仏のおしえ)を黙っている。(教は経でもある)
全(すべて)絡(つながっている)。
一台も車を見かけない日がつづくかとおもうと、こんどはわんさと走っている日もあるというしまつです。まあ、こういった事実を念頭において父のことを想像してみてください。
☆しばしば救助を見ない日があるかと思うと、再び死んでいくのを見ます。すべてこれは父(宿命)なのです。
『夕べの徴』
この景の場所を特定できない。手前の対象物には光が当たり明確に物が見えているのに、背景の山々はすでに日暮れて暗い。つまり、陽は山の向こうに落ちているはずである。
前景と後景は隔絶された空間であり、深くて巨きな溝を感じる。繋がらない空間を隠蔽するかのフレームは正しい四辺形ではなく波板も左に傾斜しているが、波板の線の方向が右に流れているためその傾きを打ち消している(錯視)。
波板の線によって傾斜面に見えるが、フラットな色面ならば、上にある球体も落下の予測を免れるのではないか。線には力があるということであるが、この場合明らかに滑り落ちるという状況を構成している。
フレームを被っていたであろう裂けて四方に丸まった面は、繋がっているようであり一枚の平面に戻るかに見えて、明らかにその面積の領分に不可思議があり決して平面にならないと直感できる。予測不能であり、復元は突起を持った立体になるらしいとの感想を抱くだけである。
赤いフレームの中の一本の樹木は板状の面に結びついている。いかにも不条理な景に立つ樹木は、辺りを支配するようであるが、頭を押さえつけられている。拘束と圧力に封じ込められている不自由さがある。地面(床面)に転がる球体は精神(心理)あるいは真理だろうか。どこへでも行かれる自由さとどこかへ流されるような不自由さを併せ持っている。
自由と不自由を内包しつつ寄る辺ない時間の流れに身を委ねている。
静かな不穏ともいうべき光景の寄せ集め、コラボした景は不安定ゆえの不安を醸し出している。
『夕べの徴』、落下のスパイラルに引きずり込まれそうなマイナスの力が働いている景である。
(写真は『マグリット』西村書店より)
砂糖を買って、じぶんだけ帰ってきたな。」雪童子はわらひながら、手にもつてゐたやどりぎの枝を、ぷいとこどもになげつけました。
☆赦(罪や過ちを許す)を問う媒(仲介)の記である。
説(話)は、同(平等)であるべき死の趣(考え)を試みている。
しかし、どの道を通ってくるかということが不規則で、見通しがたたないのとおなじように、車の数もまちまちで、予測がつきません。
☆しかし、その激しい口論も不規則で突発的なのです。救助の数もまちまちで心底を見抜けません。
なにかの講座で机を並べた縁での知遇。
「わたしたちって気が合うわね、これきりお別れは淋しいわ」との発言で始まった月イチの会食。
ハイランド・粟田・長沢・大矢部の四人、地域は異なるが至近ではある。その距離の真ん中に位置する「夢庵」でのおしゃべり。
他愛もないことを語り合う・・・ただそれだけ。
第一回は3.11の震災の日、大きな衝撃の後、手を振り合って再会を約束。それが途切れることなく今日まで続いている。最終週の金曜日を合言葉に集う。
なんとなくストレスがないわけでもない。けれど、そういう自分を否定し自身を戒めている。
四人の高齢者がひたすら日常を語る。淡々と、時にはため息交じりに・・・時に笑い合うという関係である。
今日は日赤の赤い羽根募金の打ち合わせ日でもある。毎年これをクリアーして夏を迎える。
繰り返される日常・・・生きて歩けて、十分である。
不満より、幸福をイメージしていきたい。風に逆らうことなく…。
『夕べの徴』
夕べ…やがて暗くなり、全ての景が見えなくなる予兆ということだろうか。見えないことは《無》に等しい、逆に言えば《無》は見えるものを隠しているということになる。その隠している景を暗に見せているということなのか。
夜(漆黒/無)に移行していく景・・・夜は見えないが(隠しているだけであって)、不在ではなく厳然と存在するものを暗黒で覆うだけである。
夜(漆黒)は描けないが、《徴》はまだ見える範疇である。
これら条件を踏まえた『夕べの徴』の意味はどこにあるのだろう。
山の峰は限りなく黒に近く、山間から覗く空は落陽の残光である。
手前に描かれた波板の上のフレームなどとは把握不能の巨大な距離間があるが、手前の景がなぜこの位置に存在しているのかは極めて不自然であり、背景(山々)との連鎖すべき空気感が皆無である。
手前の景に関していえば、全てが微妙に傾斜しており、存在の根拠を逸している。つまり移動(落下)の予知が直感できるのである。
存在の不確定、確かに見えているが、時を待たずして落下・壊滅を免れない設定・構築である。重力下にある物体の静止を守る根拠がない。
この心理の揺れを甘受できないし、この不条理な光景を正視できない。
この作品を目にしていると静かに沈み込んでいく不安を覚える。まさに夜(無)への移行を怖れる前兆がある。
(写真は『マグリット』西村書店より)
「あいつは昨日、木炭のそりを押して行った。
昨日はサク・ジツと読んで、朔、実。
木炭はボク・タンと読んで、墨、譚。
押してがオウと読んで、往。
行ったはコウと読んで、講。
☆朔(月の第一日)の実(内容)は、墨(黒/見えない)。
譚(物語)は往(人が死ぬ)講(話)である。