つくづく自分はダメな人間だとがっかりしてしまう。
先月のサークルでの課題がまだ描き終えていない。まだまだと言っているうちに、迫りくる日々…ついに数日後というときになって慌ててそれらしいものを仕上げている。
お粗末なのは明白。(まぁこの程度でいいか)という堕落した安易。
死ななきゃ直らない…(時間がないよ)
結局、この程度の人間なのだという開き直りが自分を救う。(可哀想だね)
自分以外救えない自分の堕落。
それにしても、昨日の『楽しいスケッチ』さんの絵は素晴らしかったよ。
あの絵のモチーフの歴史博物館は・・・。
「先生が見えているのですが参加人数が少ないので受講していってくれませんか」と言われ「はい」と二つ返事。
ところが、最初から最後まで居眠り、終了の拍手で目が覚めたというお粗末。
最低!
何を思い出しても、こんな感じ。
つくづく恥ずかしい。(がんばる余地はあるのかな・・・)
『個人的価値』
壁は一めん空を模した壁紙が張られている、否、壁は空である。
室内には日常的に使用される櫛やブラシ、マッチや石鹸やグラスが置かれているが設えに比して巨大ともいえる大きさであり、ベットやタンスが極小に見える。何を基準にすればよいかはこの場合問題外かもしれない。
きわめて日常的な光景でありながら、きわめて奇怪な空間を提示している。
『個人的価値』、すなわち『精神の自由』であり、物理的な配慮(通念、在るがまま)を、自由な尺度で置換してみると世界に変化が起きるという痛快。
人の心に潜む束縛への反発を払拭する手段こそ、個人的ともいえる価値ではないか。
空(三次元)が壁紙(二次元)に変容する質的変換。形、性質を変えて別のものになるという変化は世界の解釈を自由に解放する。
目覚めたら、沸き立つ白い雲の上であり、日常の品々は巨大に膨張し存在を誇示している。昨日まであんなに静かだった日常空間が主張をし始めたとしたら・・・心に騒ぐわたくし(個人的)の空想世界は幻かもしれないが心の要に生きている。
『個人的価値』とは、そういう平凡な意識にかける神秘の魔法である。
(写真は『マグリット』西村書店刊より)
(どうして僕はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこゝろもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向ふにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。
☆僕(わたくし)は朴(ありのまま)の態(ありさま)を含めた講(話)を章(文章)にしている。
化(形、性質を変えて別のものになる)で現れる。
「わたしが両者の比較にあくまでもこだわったからといって、どうか悪くおもわないでくださいね。あなたが比較の対象にされることからフリーダを守ってやらなくてはならないとお考えでしたら、フリーダにかあんしてもまだ先入見か思い違いが残っているのですわ。
☆二人のことで悪く思わないでください。フリーダについて思い違いなど残してはいません。先祖との比較に対して考えるべきです。
『発見』
裸婦の身体に年輪も露わな木目がついている。裸婦が木目(木の彫像)に変容しつつあるのか、木目(木の彫像)が生身の裸体に変容しているのかは不明であるが、互いに侵食し合っている関係である。
生身の肉体が生命を断ち切られた木材に化していく・・・つまり物言えぬ死の領域に入っていくということである。
なぜ、年輪露わな木目へと変身していくのか。木目は歳月であり、過去であり、時間を止められたものである。そして朽ちていくしかない不可逆をたどるものでもある。
生成不可、未来を阻まれたものの過去のデータが木目(年輪)であれば、生命を絶たれた女体に等しい。
黒髪・赤い唇・濡れた瞳・成熟の女体は、すでに木化しつつあり、木への変容は止められない。すなわち《死》の暗示にほかならない。
『発見』は『哀悼・惜別』の葬送である。発見とは死を認可した衝撃の鼓動であり、生命の終わりを胸に刻んだ自分自身を発見したということではないか。
マグリットの作品は母の死が原点であり、過去・現在・未来の時空、究極、絶対の真理への問いが論点であると思う。
(写真は『マグリット』西村書店刊より)
そして車の中はしぃんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったのでだまってこらへてそのまゝ立って口笛を吹いてゐました。
☆赦(罪や過ちを許す)や、誅(罪を責め咎める)は套(おおって)隠している。
己(わたくし)は冥(死の世界)の願いを推しはかり、律(物事の基準となるもの)の考えに適(あてはまるもの)を遂(なしている)。
「そうじゃありませんね、オルガ。あんたがどうしてフリーダをこの問題に引きずりこむのか、ぼくにはわからない。だって、問題は、まったく違っているんだから。根本的に違ったことをごっちゃにしたりしないで、どうか話をつづけてください」
☆「いいえ、オルガ」とKは言い、「わたしはなぜフリーダがこの事件に引きずり込まれるのか知っている、しかし、事情は全く違う。全く違うということを乱雑に混ぜたりしないで話を続けて下さい」
『ことばの用法』
canon・ corps de femme・ arbre という言葉(文字)が白の不定形な領域に書かれている。バックは上半分が深緑、下半分がレンガでありその稜線は少し右下がりで平行ではない。
文字の書かれた領域は不定形とはいえ人型を想起させる。(点が三つあれば人の顔を想起させるというレベルである)
問題は認識のレベルである。学習された共通認識は同じ対象をイメージするが、外部の人間にとっては文字の意味する対象を認識することはできず、理解不能な混沌は単なる線描でしかない。
その点、彩色に関しては深緑(green)は多義にわたるかもしれないが、知っている限りのグリーンを想起させる。レンガの方は、人が作り出したものであるから一般的であっても知らない人にとっては意味不明にしか映らない。どちらにしても、発する側の意図は必ずしも正確に受信されるとは限らない。
ことばの用法は、人知の上の約束という条件付きで果たされるものである。確信している共通言語も安定を約束されるものではなく常に変化を余儀なくされる可能性を孕んでいる。
この作品を見る限り、大砲・女の身体・木という意味を有した文字は関連性のない文字の羅列である。『ことばの用法』というタイトルであるが、用法そのものが欠落している。
言葉にたいする強い確信・信頼の崩壊、揺らぎがここにある。つまりは『ことばの用法』の虚弱な側面を衝いている。
ことば≒イメージであるが、ことば≠イメージでもあり、用法は極めて不安定なものである。
『ことばの用法』そのものへの問いであり、答えであるかもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「わたる鳥へ信号してゐるんです。きっとどこからか狼煙が上がるためで背う。」カンパネルラがすこしおぼつかなさうに答へました。
☆懲(過ちを繰り返さないようにこらしめ)審(正しいかどうか、つまびらかにする)。
業(善悪すべての行い)の償いは禱(いのり)である。
これは、慣れっこになったのではありません、単純な判断だけが問題であるような場合には、慣れたからといって、鈍感になれるものではありませんもの。これは、あなたがた先入観から解放されたということだけですわ」
☆これは、慣れたのではありません。慣れないで鈍くなっただけです。単に判断をし、思い違いを改めただけです」