擬人化の紙片に空けられた穴(模様)は、人生における経験の情報すなわち記憶である。
二つに折り畳まれて刻まれているのは何故だろう。
是非ではない、人としての核(中心)があるということかも知れない。
刻まれた穴は、偶然ではなく必然的なものであり、均衡がとれている。平凡と換言してもいいかもしれない。
これらの穴は背後の空間に透けている、自然との一体化の進行…無に帰していくためのものだろうか。
足は下方へ、上半身は正面を、そして顔(頭部)は上方を。つまり葛藤・反逆の精神である。
この人生(重力圏)において、下降は必然であるが、精神はあくまで真理を目指している。この徒労この虚しさを、吹けば飛ぶ紙のような質で、しかも経験値の穴を刻みながらも、《抵抗》をもって生きている。これを喜劇と呼ばずしてなんとしよう。正しく『喜劇の精神』である。
その陽のあたつたせなかが
すこし屈んでしんとしてゐる
わたくしはあるいて馬と並ぶ
これはあるいは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
☆拗(ねじれる)苦痛、魔(人を惑わし害を与えること)を蔽(見えないようにしている)。
各(それぞれ)の魔(人を惑わし、害を与える)の赦(罪や過ちを許す)。
悩む状(ありさま)を浄(きれいにする)語(言葉)は赦(罪や過ちを許す)拠(より所)である。
片手にからの食器をのせた盆をもっていた。Kは、すぐもどってくるからと従僕に言って、フリーダのほうへ走っていった。従僕は、そしらぬ顔をしていた。
☆フリーダは気づかず、ただじっと見ており、一生懸命働く人たちを無に帰していくことを無雑作に担っているだけだった。
喜劇の精神は人のみに宿る感情である。
この人型(擬人化された紙片のようなもの)のいる状況に『喜劇の精神』があるという。見えない精神を具象化し垣間見せた作品を前に考え込んでしまう。
喜劇とは何だったかと…。
立ち姿というより、何気ないが踏ん張っているポーズである。下り坂であるにもかかわらず、上半身は直立している。大変さを見せない、水面下で足を忙しく掻く水鳥のような平静さである。
足は下方に向かっているのに顔は上方に向き、行動と思考が相反している。すなわち《葛藤》があり、常に上昇志向に身を挺している。
何かを求めるための眼差しがそこに潜んでいる、隠しているが秘めているという風である。
薄っぺらな身体、坂は身体的な年齢、死へと向かう道筋かもしれない。しかし思考ばかりはそれに逆らっている。
儚い抵抗・・・滑稽に映る現象。すべては幻であるという前提に立てば、喜劇であるほかないではないか。わたくしの告白であり、自画像である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
光沢消しだ
馬も上等のハツクニー
このひとはかすかにうなづき
それからじぶんといふ小さな荷物を
載つけるといふ気軽なふうで
馬車にのぼつてこしかける
(わづかの光の交錯だ)
☆恒(常)に択(良し悪しを見てより出す)章(文章)である。
場(場所・空間)は常に悼(死を悲しむ)章(文章)である。
化(教え導く)仏は済(救い)が基である。
経(常に変わらない)魔の赦(罪や過ちを許す)講(話)である。
考(思いめぐらす)策(図りごと)である。
Kが当てもなくあたりを見まわしていると、遠くの廊下のまがり角のところにフリーダの姿が見えた。フリーダは、Kだということがわからないような様子をして、じっとこちらを見つめているだけだった。
☆Kが何気なくあちらを見ているとフリーダ(平和)がはるか遠くに見えた。フリーダは彼に気づかないようだった。
喜劇の精神、精神であって物理的量感をもった喜劇役者を表しているのではない。
精神は見えないが、見える形に置換した場合の一形態を推量している。
勾配のある坂、押し留めるパワーなしでは落下していくより他ないが、足先が地表(床面)に食い込むほどのパワーをもって、しかし見かけは飄々と立脚している。
人為的に空けられた限りない穴は、日常の機微や記憶、周囲(観客/鑑賞者)の眼差しによる傷痕(あるいは賞讃)などの集積かもしれない。
淡々と身に刻み込んだ経験値が精神である。どこを向いているのか、どこへ行こうとしているのか、誰にも分からないし、見えることもない。風に吹かれそうでいて決して飛ばされぬように踏みとどまる。
喜劇…面白くもあり哀しくもある生きることの実態、人は抗力をもって生きねばならない。
これは《わたくし》である。
わたくし(マグリット)は『喜劇の精神』をもって現今、ここに踏みとどまるものである。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)