『電車』
トンネルへはひるのでtけた電燈ぢやないのです
車掌がほんのおもしろまぎれにつけたのです
こんな豆ばたけの風のなかで
なあに 山火事でござんせう
なあに 山火事でござんせう
はてな 向ふの光るあれは雲ですな
木きつてゐますな
いゝえ やつぱり山火事でござんせう
☆伝える赦(罪や過ちを許す)
伝える等(平等)の視野(思考、見解、観察などの目の及ぶ範囲)の章(文章)は、等(平等)の譜(系統的に書き記したもの)である。
太陽には、化(教え導くこと)の慈(いつくしみ)がある。
太陽には、化(教え導くこと)の慈(いつくしみ)がある。
他意の考えを恒(常に)運(めぐらせている)。
黙(声に出さないが)太陽には、化(教え導くこと)の慈(いつくしみ)がある。
この画は縦横きっかり計ったように正確に描かれているが、むしろ奇妙である。
広角的に見たにせよ、焦点が定まらない。しかし、遠方から見た場合、部分的に画一的になることはある。
つまり、至近ではなく、遠方から覗いている景色である。
一様に閉ざされた窓、彩色に欠けたカーテン、室内は真っ暗にしか見えない。
このシーンは二階以上四階までの建屋を写しているが、相当に大きい建築物(集合住宅)であり、相当数の人々を暗示している。
並べて閉塞的な生活を予感させる、なぜなら、『夏』であるにもかかわらず窓は閉じられているから。
夏ならばこそ、この景色は異常なのである。
当然、開放されるべき窓の閉塞・・・何らかの警告、通達があっての緊急事態。世情の暗澹、社会の歪み、不穏な空気(ファシスト化)・・・人々の震え慄きが垣間見えてくる。
マグリットの杞憂・心痛、激震の走る世情を沈黙のうちに静かに描いた作品である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
わたくしは白い雑嚢をぶらさげて
きままな林務官のやうに
五月のきんいろの外光のなかで
口笛をふき歩調をふんでわるいだらうか
☆魂の像(すがた)を納(受け入れる)
輪(順に回る)謀(はかりごと)で換(入れ替える)
語(言葉)を合わせる我意の講(話)である。
考えに適(ふさわしい/当てはめ)補(繕う)帖(書き物)である。
アルトゥルは、お城へ逃げていって、このことを訴えています。いずれはこちらへ帰ってくるでしょうが、とにかく、いまはいません。しかし、イェレミーアスは、こちらに残りました。
☆アルトゥルは、死から逃れ、今は砦からも逃げており、常に告訴しています。しかし、イェレミーアスはこちらに留まりました。
『屈折率』
七つ森のこつちのひとつが
水の中よりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛の雲へ
陰気な郵便脚夫のやうに
(まtアラツデイン 洋燈とり)
急がなければならないのか
☆窟(洞穴・岩や)の説(話)の律(決まり)、
死地の真(まこと)を推しはかる。
宙(地面から離れた空間)にある冥(死後の世界)は、虚である。
悼(死を悲しむ)を接(つなぐ)講(話)であり、粛(謹んで)吾(わたくし)は、(それを)掩(隠して)運(めぐらせている)。
隠れた記は幽(死者の世界)を弁(語る)。
客(訪ねてくる人→これを読む人))は普く要である等(平等)を究める。
※屈折率とは《現世と来世の》それである。
『夏』
同じ窓が縦横に並ぶ建物の壁面、ポールに掲げられた旗は空(青空に散在する雲)が描かれている。それっきり・・・。
夏といえば開放的なイメージがあるのに、カーテンで閉ざされ閉まったままの窓というのは奇妙である。建物には当然内部に人がいるはずなのに、多くの人が並べて窓を閉じている。
灼熱の季節である『夏』に閉ざされた窓は納得がいかない。ここにある理由は何だろう。
抑圧された忍従だろうか。
それとも人は不在なのだろうか。石造りの頑強に見える建物の画一化された窓の距離間(上下とも)が非常に短い。各人がぎゅうぎゅう詰めになっている印象がある。それに日射しが届かないのか窓の中は暗く、見える物がない。
風景の中の建物ではなく、建物の中の建物という感じである。どこまでも判で押したように同じであり、並べて暗く陰鬱と沈黙が座している。
ポールに掲げられた旗には同年に描かれた『呪い』と同じ作画があるが、その一辺は直線ではなく切り取られたあとのような感がある。(平和な日常を返して)とも取れるが、《自由》の象徴とも思える。
『夏』、ここに本来の夏のイメージはなく、夏を喚起させるものはない。にもかかわらず、『夏』であるのは不条理である。
あえて『夏』と題した理由は、凍りついた世情への告発、反発、皮肉ではないか。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
これらはあるいは天の鼓手 緊那羅のこどもら
(五本の透明なさくらの木は
青々とかげろふをあげる)
☆展(広がる)己(わたくし)の趣(考え)は、襟(心の中)に納めた裸(包み隠さないこと)の語(言葉)にあり、翻(形を変えてうつすと)答えがある。
冥(死後の世界)に、黙って照(あまねく光が当たる=平等)を唱えている。
それに、あなたは、あの夜このアルトゥルをなぐって、ほとんど半殺しになさいました。あの一撃は、わたしたちの幸福をもこわしてしまったのです。
☆それに、あなたは、あの小舟を握り拳で打撃を与えました。それは、わたし達の幸福をも破壊したのです。
そのとき展望車の藍いろの紳士は
X型のかけがねのついた帯革をしめ
すきとほつてまつすぐにたち
病気のやうな顔をして
ひかりの山を見てゐたのだ
☆転(ひっくり返す)謀(図りごと)は、視野(思考、見解、環sつなどの及ぶ範囲)を覧(よく見ること)。
真(まこと)の詞(ことば)で啓(人の目を開く)他意を書く。
描く記の願い(信仰)は、太陽が源である。
曇りなき空を、無垢あるいは無心というのなら、雲の散在する空は心の闇、心の翳りということかも知れない。
呪いという感情は計画的に湧き出るものではなく、負の感情の高まりが総じて呪いのような悪意を惹き起こすのである。
暴落、失敗、嫉妬・・・あらゆるマイナ要因は人心を刺激する。精神の均衡を崩すとき、向かう対象への『呪い』が生じる。
打つ手がない、策のない窮乏に『呪い』は救いでもある。
しかしその『呪い』には物理的戦略はなく、客観的に見れば単に狂気の領域に足を踏み入れたに過ぎない。
その無為無謀のエネルギーは決して答えを発しない空に向かう。空、とりわけ不意に沸き不意に消えて行く雲の存在は、『呪い』の空虚を映し出す。
『呪い』は、『空に散在する雲』に匹敵するかもしれない。
形を定めずに沸き、いつかは消えて行く雲の在り様は、『呪い』の憤懣に類似する。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)