続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

時間の不思議。

2013-05-31 06:59:25 | 日常
 わたしの66年間を思い返してみると、驚き呆れるほど短い。でも、一夜の夢であると同時に長く重い連鎖の糸を引いてもいるらしいのである。つくづく時間というものは奇妙である。


 過ぎ去った時間は内的感覚によって収縮自在であり、すでに幻と化している不可逆の時空である。何をやっても間に合わないという絶望感が過ぎると、それだけで戦意喪失し全てが無に帰していく。
 これからなのだという希望的(楽観的)な展望を捨ててはならないと自分に言い聞かせ奮い立たせることもある。しかし、体力減退は否応なくわが身に降りかかる事実であれば失笑を免れない戯言にすぎないかもしれない。

 現世という時空に生きている。与えられた時間と空間は一見自由である。けれどそれを束縛に変える諸条件が、見えない網のように張り巡らされていることに気づくことがある。
 生老病死・・・有機である肉体は必ず終息し、霧消して行く。
 
 時間は時間のまま沈黙を守り、世界の変遷に身を委ねているかに見える。
 しかし、その悠長にみえる時間を超えることは不可能である。

 時間との競合・・・ただ時間には正体がない、ゆえに自己主張もないし勝敗を仕掛けてくることもない。なのに残念ながら人は時間の前で手もなくうち負けてしまうのである。

 時間の不思議に身を委ねて、自然に生きる。人の取るべき道の選択肢は、人という条件下に限定されるしかなく、命ある限り生きるしかないというのが、時間の中における唯一の命題である。

『セロ弾きのゴーシュ』104。

2013-05-31 06:30:59 | 宮沢賢治
 ホールではまだぱちぱち手が鳴ってゐます。それどころではなくいよいよそれが高くなって何だかこはいやうな手がつけられないやうな音になりました。大きな白いリボンを胸につけた司会者がはひって来ました。


☆衆(人々)の命の講(はなし)である。
 化(形、性質を変えて別のものになる)の趣(考え)に隠れている題(テーマ)。
 吐/告白すると、経(常に変わらない)死の界(境)にある赦(罪や過ちを許すこと)の頼(他者の助けを期待する)にある。


*時間
 第一夜、《夜中もとうにすぎてしまい》→一時から二時ごろ。
 第二夜、《一時も二時もすぎ》→二時以降三時まで。
 第三夜、《帰った時には、東の空がぼうと明るくなっている》
 第四夜、《明方近くうとうととしていると》
(明らかに時間は少しずつずれている。仮に月の出と想定して、五十分ずつずらして行くと、第一夜を一時半とすれば第二夜は二時二十分、第三夜は三時十分、第四夜は四時(短夜の四時は明方近くと表現してもいいと思う)
∴毎夜の訪問者は月の化身である。

*金環食の条件。
 月は新月。
 楽長(太陽)・月(化身)・ゴーシュ(地球)が一列に並ぶ(楽器はString/一列)。
 ぱちぱち手が鳴っています。鳴るはring/環。
 大きな白いリボン・・・金環食は黄道と白道が同じところに重なる。太陽の通り道は黄道、そこへ白いリボンです。
 

『城』1288。

2013-05-31 06:18:54 | カフカ覚書
「おみごと、おみごと。無条件に拒絶されましたね」教師は、そう言うと、帽子をとり、お辞儀をして、出ていった。

 帽子/Hut→Hut/監視する、警戒する。
 お辞儀/verbeugte→verborgen/秘密の。

☆「特に、とりわけそうでしょう。無条件に拒絶されましたね」教師(空虚)は言うと、警戒しながら秘密裏に出て行った。

柴田先生の授業。

2013-05-30 07:26:26 | 日常
 一生懸命伝えようとしてくれていることが、ぼんやり聞いているわたしにもなんとなく・・・。

「ここ三浦半島は、新生代(6500万年前~)に、海の中(深海)1000メートルより深いところで造られました。そしてそれは北米プレートと伊豆方面からのフィリッピン海プレートの影響を受けて出来たものです」

「へぇ~、そうだったの」という鈍感な感想。
 でも聞いているうちに大昔の海流や地震、火山の爆発などによるドラマティックな展開がこの地層という現象として露になっているのだということが分かってくると、それぞれ異なる地層の模様にも何百万年前の壮大なドラマ(変遷)が見え《オオッ~》という驚愕に変化して・・・。


「人間が誕生したのは高々一万年くらい前ですから~」(うーん、想像を絶する世界)

 
 歩こう会ののりで参加している不心得なわたしでも、感慨ひとしお・・・。

 先生は何とか、常識レベル程度のことは皆に理解して欲しいと願っているに違いないけれど、薄のろ間抜けなわたしなどには苦笑されていたかもしれない。(勘弁して下さい)

 三崎、油壺付近での授業・・・通り雨程度で濡れずに帰宅。
 やっと追いついていっている風なお婆さんですが、楽しかったです!ありがとうございました。

『セロ弾きのゴーシュ』103。

2013-05-30 06:49:15 | 宮沢賢治
ホールでは拍手の音がまだ嵐のやうに鳴って居ります。楽長はポケットに手をつっ込んで拍手なんかどうでもいゝといふやうにのそのそみんなのあいだを歩きまはってゐましたが、じつはどうして嬉しさでいっぱいなのでした。みんなはたばこをくはへてマッチをすったり楽器をケースへ入れたりしました。

 楽長はラク・チョウと読んで、絡、丁(十干の第四→die、死)→死を暗示。

☆魄(たましい)の主(ぬし)は隠れている。覧(よく見ると)、冥(死後の世界)は絡(つながっている)。
 死んだ衆(人々)は孤(ひとりぽっち)である。
 魄(たましい)を修(ととのえて)換(入れかえ)、符(しるし)の絡(つながり)で記すのは新(新しいやり方)である。


*「演奏までもうあと十日しかない」と楽長が言ったのは、二十日過ぎの月が出た晩のこと。
 月の化身である三毛猫、かっこう、狸の子、野ねずみの母子の連日の登場、それから六日ということは二十九日過ぎの月、つまり新月です。
 演奏は昼過ぎ・・・

 楽長(太陽)・動物たち(月の化身)・ゴーシュ(地球)・・・これは金環食の図だと思うのです。

『城』1287。

2013-05-30 06:19:20 | カフカ覚書
冗談にしっぺがえしをするのも、おとな気ない話です。それで、村長さんの意を受けてお邪魔にあがったしだいです」
「あなたの心配は、杞憂というものです、先生」と、Kは言った。「その職をお受けすることは、気がすすみません」

 冗談/spass→spiesse/思うように運ばない、突き刺す。
 おとなげない/keine Einwande→khan ahn Band/小舟、先祖の束縛。

☆思うように運ばず、対向するのは小舟という先祖の束縛です、それは命じられて行くのです。あなたの心配は杞憂というものです、先生(空虚)」とKは言った。
「先祖の立場を承諾することは、わたしにはできません」

Mさん。

2013-05-29 06:12:17 | 日常
 草花(野草)に対する思慕の念(どこかでわたしは野草に恋している!)

 今はすでに気楽な日常。元気なうちに再びあのトキメキに出会いたい・・・自然への恋慕、何思うことなく足元の草に目を向け、その名前を教えてくれる「植物教室/自然観察」の愉しさ。

 昨日は観音崎へ・・・偶然、近所のMさんも参加で同行。
「今、蕗を煮ているの。今日で三日目、やっと煮上がるわ」と言い、「帰りにはラッキョウを買っていくつもり・・・忙しいわ」と笑った。
 近所だけれど、お互い家を訪ねたこともなく、偶然出会うと話が弾むという関係。

 ラッキョウ、梅干、野草酒、豆を炊いたり、野草茶をこしらえたりと、一年中何かしら自然食にこだわっている。

「少し遅れたけど、ドクダミを採取して干すつもり。あれって、花が咲く前、つぼみのうちがいいんですってね」
「あら、花が咲いているときでもいいんじゃない?」
「そうね、明日辺りは雨になりそうだから早く取らなくちゃあ」と、Mさん。

「忙しいわ」と。


 確かにこの季節は忙しい。ラッキョウだって皮をむいて根を切り、洗って拭き取るまでキロ数が嵩めば嵩むほど時間がかかる。
 梅干も・・・そういえばMさんから「赤ジソは入れないほうが、梅酢の利用価値がある」と聞いて、面倒な赤ジソ作業を省くことができたのを思い出した。(でも赤くない梅干ってちょっと淋しい)

「タンポポの葉を天ぷらにしたわ」と彼女がいえば、
「アシタバを天ぷらにしたら美味しかったわ」と、わたし。
「タンポポの根を炒めて食べてみたわ」「タンポポコーヒーっていうけど、苦いばっかりね」

 話が尽きない二人・・・。
 そんなMさんと同行の昨日の観音崎、秋には衣笠山・・・楽しみだわ。

 大前先生、衣笠公民館の方々、昨日はありがとうございました。

『セロ弾きのゴーシュ』102。

2013-05-29 05:57:34 | 宮沢賢治
 それから六日目の晩でした。金星音楽団の人たちは待ちの公会堂のホールの裏にある控え室へみんなぱっと顔をほてらしてめいめい楽器をもって、ぞろぞろホールの舞台から引きあげて来ました。首尾よく第六交響楽を仕上げたのです。


☆無(存在しないもの)を、化(形、性質を変えて別のものにする)により黙って番(組み合わせている)。
 混ぜる象(すがた)を隠す絡(つながり)の談(はなし)を、図り帳(ノート)に考えを解(といている)。

『城』1286。

2013-05-29 05:44:10 | カフカ覚書
わたしは、こうした意見を手もなく反駁してみせました。とうとう村長さんは、あなたのためになにも弁論できなくなり、しかたなく笑いながら、なんと言っても測量師なんだから、校庭の花壇を特別美しくこしらえることぐらいはできるはずだ、とだけおっしゃいました。

 笑いながら/lachte→Racht/復讐。
 校庭/schulgarten→schuldig/責任。
 花壇/Beete→Beute/犠牲。

☆最終的に村長さん(死への第一の門)はあなたのために(苦情などを)申し立てることができなくなり、ただ復讐だけを言ったのです。にもかかわらず、測量師(土地を失くしたことに気付いた人)なんだからという理由で(非難されるべき事に対しての)責任の犠牲には別々にまっすぐ線を引いてもよいというのです。

繰り返される日常。

2013-05-28 06:21:09 | 日常
 gooサービスにより、一年前の記事を再び目にすることができる。

 それを読むと、つくづく・・・同じ日常が繰り返されていることに気づかされる。地層見学(自然観察会)は去年と二日しかずれていないし、第一撮った写真がほぼ同じ、そして多くは同じメンバー。
 昨今の状況が去年と重なるのである。

 365日、春夏秋冬・・・同じような感想の記述があるのを読むと、自分は何かの周りをぐるぐる彷徨しているに過ぎないのではないか、という気がしてくる。

 明らかな事は、一年が経ち、一才年を重ねたという事実だけではないか・・・成長or衰退?

 年をとれば情報量も増え、賢くなるという前向きな図式は描けない。忘却量が記憶量をはるかに超え、むしろ何かぼんやりした感想を抱くだけなので、去年のことはまったく念頭になく、gooサービスによる《一年前のわたしの記事》を目の当たりにして絶句してしまうのである。

 同じ日常の繰り返し・・・。破綻なく、一年を乗り越えたことに感謝すべきかもしれない。
 
 
 今日は観音崎(自然観察)に公民館(コミュニティセンター)のイベントで行く。
(来年は何らかの事情により行かれないかもしれない)そうした危惧が、わたしを急きたてる。いつか必ず来るXデイに向かい、まるで火口を巡るような面持ちで歩いている。(もう少し・・・と、つぶやきながら。)