《3.25mのクロバエの羽》
クロバエの羽が3.25mというのも奇想だけれど、水であるべき面が鉄(金属)だというのもよほど解釈を拡大しないと受容できない。
空中を飛行するクロバエ、飛行=生きることであるクロバエを捕らえて見れば、ただの物体になり、それは飛行物体ではなくなってしまう。
クロバエは常に空に浮く存在であり、その羽は飛行を助ける要である。
しかし、それが地上の水平面を持つ金属に置き換えられ、中心から相似形に四角い穴が各所に空けられている、つまり単なる水平面ではなく暗示(意志)が潜んでいるということである。
空中を映す鏡のような長方形の領域、3.25mは任意の大きさであるが、ある意味、空中におけるクロバエの所有する領域を想定することも可能である。図り得ない(想定された)クロバエの羽の所有空間の分量を映し出す装置である。
(写真は神奈川県立近代美術館/若林奮『飛葉と振動』展・図録より)
春光呪詛
瞬(短い間)の講(話)は、寿(命)の蘇(よみがえり)である。
いつたいそいつはなんのざまだ
どういふことかわかつてゐるのか
髪がくろくてながく
しんとくちをつぐむ
ただそれつきりのことだ
春は草穂の呆け
うつくしさは消えるぞ
(ここは蒼ぐろくてがらんおしたもんだ)
頬がうすあかく瞳の茶いろ
ただそれつきりのことだ
(おおこのにがさ青さつめたさ)
☆発(外に現れる)瞬(短い間)に、総(すべて)を推しはかる。
法(神仏の教え)は、照(あまねく光が当たる=平等)である。
総て教(神仏のおしえ)であり、等(平等)を査(明らかにする)章(文章)である。
しかし、どんな相手でもすぐに見わけるのですが、まるで自信がなさそうに、初めにまずたずねてみるのです。それで、わたしにむかって、〈バルナバスじゃないかね〉と言いました。さらに言葉をつづけて、〈ちょうどよかったよ。わたしは、これから縉紳館へ出かける。
☆しかし、それにもかかわらず、どんな人間も同じだと認め、確信がなくともまず質問するのです。「バルナバス(北極星/来世との転換点の至近を回っている)じゃなかね」と、彼はわたしに言いました。そして質問するのです「測量士(土地を失ったことに気づいた人)を知っているかね」と、言い「良かったよ、わたしはこれから大群の(待つ)ハロー(死の入口)へ行くのだ」と言った。
『10×□Ⅳ』
意味不明な数式であるが、□の中に整数(+)、あるいは負数(-)、あるいはゼロであれば…と考えていくとあらゆる可能性が出てくる。
それは、《存在・非存在・無》という解釈が一般的かと思われる。
作品は人の口から何かが出ている(呼吸)ように見えるが、外部からの攻撃(新鮮な空気、潜む細菌)のようにも見える。
人体に於いて、外部との接触面(穴)は、幾つかあるがもっとも交感度が高いのは口かも知れない。
人の吐く息は物理的に空気を流動させる、その振動は生命体の持つエネルギー(力)によるものであり、自然(空気)からも同様にエネルギー(酸素)を頂いている。
つまりは存在の所以である。
(写真は神奈川県立近代美術館(若林奮『飛葉と振動』展・図録より)
あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらおみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ
☆測(予想して)迫る。
拝(敬い尊重して)告げ、運(巡り合わせ)、化(教え導く)講(話)である。
すぐにわたしだということをわかってくれました。抜群の記憶力とひろい世間知とで有名な人なのです。ちょっと眉を寄せさえすれば、それだけでだれでも見わけてしまうのです。一度も会ったことがなく、どこかで聞いたか読んだかしただけの人っちでも見わけてしまうことがります。たとえば、このわたしだって、それまでに会ったことはまずなかったとおもいます。
☆彼はすぐにわたしを分かってくれました。記憶力があり、感情豊かで有名な人です。会ったことも聞いたことも読んだこともない人たちでも、ただ目の働きだけでわかってしまうのです。たとえば、わたしも会ったことはありません。
『犬から出る水蒸気』
犬から水蒸気が出るという認識を持ったことがないが、犬の雰囲気、振動する空気感は不確かだけれども感覚としてはないこともない。犬がこちらにやって来るときの空気の揺れ、生命体の持つエネルギーの発散は辺りの空気を攪拌する。
それが水蒸気なのか・・・犬の生息、即ち有機質の酸化、エネルギーの消費、汗が空気中に気化する確率は不明であるが、確かにエネルギーは水蒸気として発散。溶解していく。
作品は固形化した泡状の物の上に泡状の突起を持った鉄板が乗り、右端にそれを下方に引っ張り込む取っ手のような物が付いている。
《犬から出た水蒸気(活性の昇華)は、上方あるいは外へ向かうが、周囲の圧(重力)により遠方にまで至ることはなく、しかも周囲の圧は変則であり一定したものではない。》という空気感の物量化(変換)である。軽い(水蒸気)ものを、重い(鉄/金属)ものに置換した表現は、鑑賞者の呼吸を止めるような衝撃と躊躇いがある。
(写真は神奈川県立近代美術館〔若林奮『飛葉と振動』展・図録より》