続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

M『現実の感覚』

2022-04-28 06:33:24 | 美術ノート

   『現実の感覚』

 巨岩石が宙に浮いている、すでに現実の感覚にはあり得ない状況である。二十六日の月の南中はごく薄い彩色かほとんど見えない、要するに真昼間である。
 巨岩石は速度を持たず空中に留まっている、つまり重力がない、無重力空間に位置している。

 現実の物理的条件を外したこの景色を『現実の感覚』と称している。現実とは何であったのか、現に今ある状態のことであり、理性と視覚が一致した時空をいう。
 感覚・・・雰囲気、外界の刺激を感性(五感)をもって捉えることに他ならないが、この景色を現実と受け入れることは難しい。納得できる説明は皆無である。

 否定「これは現実の感覚にはない」という答えに対し、『現実の感覚』を肯定できる情報の積み重ねがない。『現実の感覚』であるという積極的な提示は鑑賞者を惑わす。
 むしろ否定することに拠り、描かれていない『現実の感覚』を呼び覚まし、現実に対する感覚を明確に把握しうる意図を感じる。この作品の前で現実の感覚を再確認する意図の内在こそが答ではないか。

 写真は『マグリット』展・図録より


M「ピレネーの城』

2022-04-27 07:14:17 | 美術ノート

   『ピレネーの城』

 古生代から中生代の地層、隆起や褶曲によってできたピレネー山脈。古代の地層の岩石、古の人の記録にない世界である。その岩石が突如海上、天空に現出するなどありえず、地上からうかがい知ることの不可能な世界があったのだと仮想する。

 絶対にあり得ないと断定してしまえば消える話である。しかしこの岩は正面からの視点である。水平線を越えた視点にあるということは、すなわち浮遊そのものであり、衆目の遥か上に在るということである。

 物理界での絶対の否定は二次元(絵画)の上では可能である。
 しかし、もしこれが単なる戯画ではなく、未来における現実だという可能性も否定できない。ピレネーは古の岩石などと言う小さな話ではなく、この岩石そのものが、滅びていった地球の破片、名残りの風景かもしれない。

 わたし達が信じ、絶対を確信する所以はどこにある?
 空中にある物はすべて落下する、という法則が通用しない時空の巡り合わせは恐怖であるが、恐怖という言葉すらも消えた世界を静観した俯瞰の図である。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『ガラスの鍵』

2022-04-26 06:41:56 | 美術ノート

   『ガラスの鍵』

 草木も生えないあ標高の尾根に巨岩石が乗っている。どこから落下してきたのだろう。地上に重力の通用しない領域はない。
 浮上、あるいは岩石が尾根の稜線に育つなどと言うことはあり得ない。非現実、空想の域である。

 物理的に叶わないことも精神界では許容される、自由であり解放区と呼んでもいいかもしれない。その接線を解く鍵は見えないし、瞬時、打ち消されるに違いない。
 神がかり的な設定はあくまで個人的なものであり、共有はない。しかし、それを作品として提示することで共感は得られる。
 分かり得たもの同士の約束、結びつきは世界に対する慟哭にも似た叫び、高揚感である。この峡谷から見上げた恐怖は、死や終末をも呼び起こし正常さを失う激震に襲われる。
 しかし、作品は二次元の創作に過ぎず手の中にある。鑑賞は非現実に対し鷹揚に受け入れられる。
 神がかり的な世界は絵空事であり、それを身に引き受けるか否かは自由である。神への信奉、この隔たりにある時空を解く鍵の有無は見えない。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『旅の想い出』

2022-04-23 07:33:32 | 美術ノート

   『旅の想い出』

 旅とは何だろう、地球、人が生きた時代を旅と呼んでいるのではないか。

 不明なほど遠い未来、すでに想い出は石化している。
 石に残る歴史の存在証明。人の心(精神)の総まとめの一幕がここに在る。

 本を脇に抱え人智を表す着衣の人間。共同社会における経済の循環、組織の中の順列、強きものであるライオン、テーブルの上の果実、ロウソクの仄かな灯り、壁に掲げられた塔の廃屋、終末である。

 すべては宇宙時間の中の旅に過ぎなかったのだろうか。地球という岩石に刻まれた幻、石化は幻想に過ぎない。
 わたくし(マグリット)の答え(総決算)も、笑止、狭い陋屋に閉じ込められた一枚のスケッチと化している。存在の重みは、単に石に刻まれた元素が証明しうるとして、旅は移動であり、留まらぬゆえに旅なのである。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『世紀の伝説』

2022-04-12 07:32:41 | 美術ノート

   『世紀の伝説』

 岩石を加工した巨大な椅子、その上に着色された小さな椅子が乗っている。小さな椅子を人間の椅子と考えるなら、巨きな椅子は人智を超える、人の手を超越した神の領域に他ならない。
 
 世紀とはキリスト誕生から100年単位で区切った年代区画のこと。
 何処までも続く膨張し続ける宇宙時間の中で垣間見える『世紀の伝説』の一頁は記念碑的に永遠不滅、刻まれていくかもしれない。

 青い水地球の中の一点、着色された小さな椅子(信奉)が人間の証しであり、生きた記録としての残存、可能性である。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『青春の泉』

2022-04-11 07:24:36 | 美術ノート

   『青春の泉』

 ROSEAU(葦)という文字が刻まれた鳩(あるいは鷲)が、あたかも羽を広げた形の石碑、馬の鈴(口伝、伝説、噂etc)、樹に見える一葉(葉脈は土中にあるはずの根である)の三体が壮観と言える大きさで聳えている。
 地平線(水平線)をはるかに見て手前には石ころ(岩石)が転がっている。そらは異様に赤く、朝夕の判定は難しい。(にもかかわらず、太陽が真上にあるような影である)

 全く条理を外した景は何を示唆しているのだろう。青春の泉、考える葦・・・人間の活躍した時代の名残り、春に例えられる短くも美しく燃えた期間(時)があったという記念すべき宇宙の光彩を岩石(地球)に刻み遺した《葦=叡智=人間》の文字。

 人類が生きた細やかな足跡、一縷の希望的観測。笑止、未来永劫かもしれない宇宙の記念碑である。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『媚薬』

2022-03-15 07:07:46 | 美術ノート

   『媚薬』

 岩石で設えた着衣が記念碑のように台座に鎮座している、これをもって『媚薬』と名付けたマグリットの想い。

 遥か遠い昔、人間なる生き物がいたという。その人たちは恋とか愛に心を熱くし、その身体を求め、果てに長い歴史を紡いでいたらしい。
 肉体への欲求、着衣の中の人間という生き物の習い・・・。

 恋慕、欲情、その類がこの着衣の中にあったという。昔々、人間という生き物が現存していたころのお話が、この着衣に遺っている。
 宇宙の中の奇跡ともいうべき風変りな生き物たちがいたことを語る遺跡である。
《媚薬という怪しいものが、精神という不可解なものに宿っていたらしい》いつか遠い未来での語り草である。


M『青春の泉』

2022-03-14 07:35:47 | 美術ノート

   『青春の泉』

 燃える朱の空を背景にROSEAUという文字を刻んだ石碑、鳩(鷲)の頭部、羽を広げた形である。左右には馬の鈴(伝説、口伝、噂etc)と一枚の木の葉(葉脈は木の根であり、枝葉の広がりは薄い平面と化している)

 巨きな人間の軌跡のようでもある石碑は過去の遺物と化している。かつての物語を刻んだ巨石の意味は、すでに風化している時空かもしれない。

 人類の成した功績、考えるという術を有した世界は幻影だったろうか、海の砂の数、空の星の数をはるかに超えた未来に、なお残存するかもしれない人類の軌跡。
 茜の空、沈んで行ったであろう現在と思しき思考の欠片…懐かしさを秘めた人類の墓場でもある。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『微笑』

2022-03-13 06:29:35 | 美術ノート

   『微笑』

 ANNO1957、この絵を描いたのは1951年とあるから、少し先の未来、現在と言っていいかもしれない。274はかなり昔(以前)であり、さらに30861は途方もなく遠い未来である。
 この石碑は相当に古い態を醸している、破損した欠片である。途方もなく遠い未来を越え、さらに途方もない時間を経た任意の時空である。

 不可逆である時間の想定、動かしがたい時間の概念。この事実を俯瞰して微笑している時空間が果たして存在しうるのだろうか。

 時間という概念は消失しうるだろうか。単に人間が妄想し作り上げた尺度に過ぎないものでしかないのか。
 私たちが『絶対に信じていること』は妄想に過ぎないのだろうか。

 太陽の巡り、核心は確信として存在し続けることは盤石ではなく、わたし達が信じている《絶対》は『微笑』に等しい軽さをもって見分される日がくるのかもしれない。

 写真は『マグリット』展・図録より


M『説明』

2022-03-12 07:35:41 | 美術ノート

   『説明』

 ガラス瓶と人参、ガラス瓶と人参の融合の三体が、青グレイのベタの背景のまえの石ブロックに鎮座している。これをもって『説明』とする意図は・・・。

 ガラス瓶は炭素を含まない無機質であり、人参は炭素を含む有機質である。この相いれない、融合不可の二体が一体と化している妄想。決してあり得ない夢想の提示である。
 現実には決して実現することのない現象も、精神界では可能だということの証明、提示である。
 現実(物質界)は非現実(精神界)においては自由に解放されるということの説明である。

 写真は『マグリット』展・図録より