青い空き瓶の上、接触しそうに電球(ランプ)が下がっている。静かな危機感は甘く切ない揺らぎを感じるし、性的なイメージも消せない。生命の揺らぎ、薄いガラスの硬質は、割れて砕ける末路を瞬時過ぎらせるものがある。
空き瓶とポットと置時計が、在ると思えば在るとし、ないと思えばないような、どこか儚げにテーブルの上に乗っている。宙に浮いているとさえ見える、そして、それらを映した鏡。
鏡の中は、なぜか陰鬱な彩色に終始している。室内は混濁してはいるけれど淡いグリーンであり、オブジェも並べて明るい。浮き立つような明るさというよりは落ち着いた爽やかさの漂う水色、そしてクリーム色・・・この対比。
鏡の中の極端な暗さは一見すると、オブジェを引き立たせるために思える。しかし、映った空き瓶や電球の周りは、黒に近い暗色に縁取られ、室内のオブジェも、それにつなぐ低い彩度の彩色で縁取られている。フェンスが見えるが、その外部も土色であり、普通の外気の空気の色ではない。そして点いていたランプも明かりは消えている。
鏡の縁取りは白く、赤・青・黄色の差し色が混じった楽しい配色、色使いである。だから、鑑賞者は騙されてしまう。
実は、この鏡のなかは、真実を映してはいるらしいけれど虚構なのではないか。
この暗色はもう一つの世界への導入部として描かれているのではないか。
現実と非現実の大きな相違、それは、観念の有無である。人間を支配する時間、決して戻ることのなく一方向へのみ進む時間という支配。作者はそれを意図的に鏡には映らない位置関係に置いている。
時空の自由な(the another world)・・・しかし、愉しいという感覚ではない。死の予感、死への恐れを斜めに構えてみている。いまの自分がそっくり向こうへ逝く日を凝視している。
「この絵の手前のオブジェ、この所在無げな不安定な物は(わたくし自身)である。それを映したならば、この通りでございます」という金山康喜の声が聞こえる気がする。
明るく清明な印象さえあるこの絵の独り言を、わたしは眼を瞑って聞いている。(写真は神奈川県立近代美術館カタログより)
空き瓶とポットと置時計が、在ると思えば在るとし、ないと思えばないような、どこか儚げにテーブルの上に乗っている。宙に浮いているとさえ見える、そして、それらを映した鏡。
鏡の中は、なぜか陰鬱な彩色に終始している。室内は混濁してはいるけれど淡いグリーンであり、オブジェも並べて明るい。浮き立つような明るさというよりは落ち着いた爽やかさの漂う水色、そしてクリーム色・・・この対比。
鏡の中の極端な暗さは一見すると、オブジェを引き立たせるために思える。しかし、映った空き瓶や電球の周りは、黒に近い暗色に縁取られ、室内のオブジェも、それにつなぐ低い彩度の彩色で縁取られている。フェンスが見えるが、その外部も土色であり、普通の外気の空気の色ではない。そして点いていたランプも明かりは消えている。
鏡の縁取りは白く、赤・青・黄色の差し色が混じった楽しい配色、色使いである。だから、鑑賞者は騙されてしまう。
実は、この鏡のなかは、真実を映してはいるらしいけれど虚構なのではないか。
この暗色はもう一つの世界への導入部として描かれているのではないか。
現実と非現実の大きな相違、それは、観念の有無である。人間を支配する時間、決して戻ることのなく一方向へのみ進む時間という支配。作者はそれを意図的に鏡には映らない位置関係に置いている。
時空の自由な(the another world)・・・しかし、愉しいという感覚ではない。死の予感、死への恐れを斜めに構えてみている。いまの自分がそっくり向こうへ逝く日を凝視している。
「この絵の手前のオブジェ、この所在無げな不安定な物は(わたくし自身)である。それを映したならば、この通りでございます」という金山康喜の声が聞こえる気がする。
明るく清明な印象さえあるこの絵の独り言を、わたしは眼を瞑って聞いている。(写真は神奈川県立近代美術館カタログより)