『会話術』
Espanaの線描が水面と陸を隔てている、というか交錯している。ずっと向こうには建屋が並ぶ人々の街が見え、その向こうには連峰が淡く連なっている。水面の線描(E)はそれらの後景を超え、空にまで延び、空間の理を壊している。
そして手前にはクラシカルな柱が左右にあるが、これは闘牛場の建屋の一部であり、描かれていない手前には大勢の観客の眼差しがあると推測される。頭に突き刺さった剣、瀕死の牛は衆目の的である。
牛は首をもたげ、こちら(観客)を恨めしく見返すかのようである。
風景の混濁した世界、まさに不条理である。同じ生物でありながら優位と劣勢の立場に別れ、片や死へと追いやられる運命。
ここに会話は成立せず、告発がなされることもない。
大衆の拍手や歓声を遠く薄れる意識の中で聞く憤懣や口惜しさは、彼らに届かない。
意思疎通(会話術)は遮断され絶命を余儀なくされる不条理、空論、無常の響きで世界の条理を刻み込んでいる。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
山男はすつかりもとのゆな、赤髪の立派なからだにんりましt。陳はちやうど丸薬を水薬といつしよにのむところでしたが、あまりいつくりして、水薬はこぼして丸薬だけのみました。
☆太陽の談(話)の釈(意味を解き明かす)撥(調整する)律(きまり)を破(やりぬく)。
朕(わたくし)は願う。
訳(ある言語をほかの言語に言い換える)を推しはかる約(とりきめ)を遂(やりとげる)厄(くるしみ)が眼(かなめ)の役(つとめ)である。
服装の点では、ここへ来られたばかりのあなたの眼をごまかすのは、たやすいことですものね。バルナバスにかんしてはこれだけです。つぎにアマーリアですが、あの子は、使者の勤めをほんとうに軽蔑しているのです。そして、バルナバスがちょっぴり成功をおさめたらしい現在では(だって、わたしたちが成功の報告をしなくても、バルナバスやわたしの態度を見、わたしたちがいっしょになってひそひそと内緒話をしている様子を見れば、それくらい察しはつきますわ)、
☆バルナバスに関してはこれだけです。アマーリアは実際には使者の小舟を尊重していません。先祖は少しばかりの結果をもたらしたようにみえます。バルナバスやわたしが一緒にひそひそ話をするのを見れば容易に知ることができ、今ではさらに軽蔑しています。
『会話術』
湖水と林の画像が重なり、それを割るように Amour(愛)というスペルを暗示した線描が区切っている。
湖水には白鳥が二羽仲睦まじく浮いている。見つめ合うというのではないが同じ方向を見ているようでもあり、片方がそっぽを向いているとも考えらえる。羽根は二羽とも飛び立つというか、何か行動を起こしそうな・・・要するに静かに見えるがざわつく予感の前兆という感じもする二羽の関係である。
林(森)は手前が漆黒であるのに、背後に行くに従って薄明るい空気感がある。漆黒の林の背後の建屋はまさに明るく照らし出されてる、空には星が見えるというのに。
二十六日の月が南中し、星が見えるというのも自然の理に反している。
つまり全てがちぐはぐな時空のつなぎ合わせであり、完全なる合致、完全なる意思疎通を望むのは非常に困難である。
会話において、通じ合っているという思いは、単に錯覚かもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
『会話術』
会話ではなく会話術である。会話をする手段、意思疎通の手立て、人と人の間をつなぐ《言語》という記号は、自然発生的に必要欠くべからざるものとして確立されたのに違いない。
会話は、形を伴わず消失を免れない共通の約束であれば、声の届く範囲での現象に過ぎないので、残存し記録化されることのない方法である。
しかし、にもかかわらずここでは切り出された石で意味(夢/REVE)を持つ単語を表意しており、そしてこれを以って会話術と名付けている。少なくともこの言語を知る民族ならば共通のイメージを認識しうるはずであるが、知らない他民族においてはただの石の積み重ね(設置)に過ぎず、会話(意思疎通)は成立しない。
会話は集積されたデータ(約束)の下に為されるものであるが、その約束は口伝よりも、文字に書き記したものを学習するほうがより効率的であり、伝達の対象として大衆の範囲にまで広げることが可能になる。要するに会話の術は、文字の学習により多くの人たちとの共有を許容することである。
人為的にカットされた巨石が文字の形をとることは通常ではありえないが、現実そのもののように感じる《夢》としての現出(幻想)は、会話が何らかの情報を媒介にしているという示唆である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「わたしビール呑む、お茶のむ、毒のまない。さあ、呑むよろしい。わたしのむ。」
そのとき山男は、丸薬を一つぶそつとのみました。すると、めりめりめりめりつ。
☆貪(欲張って)、再び読み、呑(他を取り入れる)。
太陽の談(話)の願いには、訳(ある言語をほかの言語に言い換える)が逸(隠れている)。
すくなくとも、からだにぴったりくっついた官服のズボンそっくりになり、これを着ていたら、あなたのまえに臆せずに立てるだろうとおもったのです。
☆少なくとも、それに近い、それらしく、という観点により欺くのは簡単だろうと思ったのです。
『オルメイヤーの阿房宮』
『オルメイヤーの阿房宮』という小説があるらしい。父と娘の愛の葛藤、不条理劇である。父と娘…親あるいは子への執着、偏執ともいえる愛の形の悲劇。
背景はオレンジ色のベタ…つまりは時代を特定しない時空であり、過去から未来における永遠に発生しうる現象としての『オルメイヤーの阿房宮』である。
一本の樹(宮)は空洞と化し疲弊しひび割れている。その根幹はどれなのか定め兼ねる混迷、因果関係は複雑に絡み合い地中深く残存している。しかし、総ては形骸化し果てた空想の産物としての笑いもの(否定)である。
どんなに恋い慕っても返ることのない絆。亡母への執着、それは『オルメイヤーの阿房宮』に酷似した思いではないか…マグリットの琴線に触れた小説を換言した哀しいまでの愚行を象徴的にイメージ化したのだと思う。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「さあ、呑むよろしい。これながいきの薬ある。ああ呑むよろしい。」とやつてゐます。
「はじめた、はじめた。いよいよはじめた。」行李のなかでたれかが言ひました。
☆呑(他を取り込む)約(取り決め)があり、貪(欲張ると)講(話)の裏(反対側)が現れる。
貪(欲張って)再び読み、呑(他を取り込むこと)。
それで、あの子の希望は、いまでは官服を支給してもらいたいというところまで高まっているのですがわたしは、たとえば、二時間足らずであの子のズボンを仕立てなおしてやらなくてはなりませんでした。
☆たとえば、それにもかかわらず、先祖の使命の提案を希望するところまで高まっているのですが、わたしは、と言えば、疑惑の死期を改めなくてはなりませんでした。