3つのと指さすものは、片方が直線、他方が偶然と思われる流線形である。
つまり、直線は人為(発見/必然)であり、流線形は自然(偶然)である。
必然と偶然が一体になっており、3つの片面は同形の直線(必然)である。つまり必然とは必ず同じ結果になるものであり、幾重にしても等しく重なる結果をもたらす。
一方流線形の方は決して重ならず、幾重にしても差異は決して埋まることはない。
偶然と必然は背中合わせであるが、元始において定かであったはずはなく、歴史(時間の経過)のなかでの人知の発見・約束である。
この手垢のついた収納箱の在り様はいかにも巧みな手法を以て造られたものであるが、意外にも簡単に開閉できる仕掛け(金具)になっている。
『3つの停止原基』は、過去・現在・未来の時間軸の中での任意の点であるに過ぎない。絶対という永遠性を含んでいる『3つの停止原基』である。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
円錐形に聳えて高く群峰を抜く九重嶺の裾野の高原数里の枯草が一面に夕陽を帯び、空気が水のように澄んでいるので人馬の行くのも見えそうである。
☆掩(隠したもの)を推しはかり、継(つなぐ)章(文章)である。更(入れ替わる)群(集まり)は法(神仏の教え)による罰(懲らしめ)の句(言葉)を調べる。
霊(死者の魂)は虚(空しい)也。
講(話)が現れる枢(要)は、理(物事の筋道)に拠る。
総て逸(隠れた)綿(細く長く続くもの)は、幽(死者の世界)の様(ようす)であり、他意である。
句(言葉)の記を推しはかり調べる腎(要)は、場(状況)を考えると現れる。
ところが、最悪の事態は、もう終わりました。やっとのことであなたから解放されたお役人たちがどんなに陽気にはしゃいでいらっしゃるか、ちょっと見せてあげたいくらいですわ。でも、あなたにとっては、問題はまだ片づいていないのですよ。ここでしでかしたことの責任をおとりにならなくてはならないでしょう。
☆最悪なことは過ぎ去った。しかし、Kは自由になった大勢の人たちをちらっと見ただけでした。Kにとっては明らかに終わってなどいなかったのです。ここで引き起こしたことの釈明があるからです。
可愛いお手紙、小学校1年生の春一朗ちゃん。おばあちゃんはケチですね、飴だけでしたか・・・。お手紙、ありがとう。
その脇にあるのは妹から、70才、よくここまで生きてきましたね、涙が出そうです。あとどのくらいでしょう、お互い元気で頑張りましょうね。
厳かというより念のいった古い時代ものの箱、この箱のガラス板で仕切られた中に3つの停止原基が収められているという。
片や直線、片や不定形な流動線を持つ長さも任意であるらしい3つの板状、これを以て『停止原基』と認定している。
無限にあり、決定を下すにはあまりに偶然である形状を留める。これを停止原基とは納得しがたい。しかし拒否の根底を支配するものは歴史に培われてきた観念であり、約束である。
原基とは何であったか。合意である、多数の人たちが動かし難い(動かしてはならない)と認めた総意は以後連綿と受け継がれ学習される。
基準である。直線は自然界に存在せず、人智の約束であり、人との堅い関係性である。
その片面に流線形を固定させ、双方を以て停止原基と名付けている。
決定的なもの(必然)と浮流する否定(偶然)を併せ持つ各々3つの板状は、然るべく時間を経た歴史の任意の点に大切に保管収納されるべきだと論破している。
主観と法則にはズレがあり、その隙間を埋めていく作業(仕事)がそれを修正していく。停止原基はその一石である。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
「その時は日が余程傾いて肥後の平野を立籠めている霧靄が焦げて赤くなってちょうど其処に見える旧噴火口の断崕と同じような色に染まった。
☆弐(二つ)の実(中身)を予め定めている。
計(はかりごと)は秘(人に見せないように隠している)。
語(言葉)を併(合わせる)也。
律(決まり)は、労(力を尽くして働く)謀(図りごと)にある。
相(互い)の章(文章)は尺(意味を解き明かす)と、諸(もろもろ)現れる。
究(つきつめ)粉(細かく砕くと)化(教え導く)考えの談(話)である我意がある。
道(神仏の教え)の私記を詮(明らかにする)。
わたしたちは、あなたにたいする憤懣のまり身をふるわせ、自分たちの無力さかげんに絶望しながら、あの廊下の入口のところに立っていたのです。まさかベルが鳴るとは予想もしていませんでしたが、あのベルは、わたしたちにとって一種の救いだったと言えますわ。
☆Kの謀反に戦慄し、あなたの無気力なのに絶望しながらも、ここでの方法の始まりを期待しました。本来、期待することなど決してありませんが、先祖を救済するためだったのです。
『3つの停止原基』
三本の板状のもの、これを原基だという。不定形、任意…偶然の線条である。二度と同じ形状が現れることがないと断言できるような流線をなぜ『原基』と認定したのか。
生じること、現象の不可思議・・・原始(未開)を限定することは叶わない、しかし、限りなく小さな可能性として想定することはできる。もちろん決定ではなく仮の想定にすぎない。
この偶然、風のような現象を『停止原基』と名付ける、しかも3つという任意の数で。
偶然は必然に結びつくだろうか。原基は必然であらねばならぬ、そう思う。
このタイトルは《わたくし(デュシャン)の》という修飾を消している。わたくし(デュシャン)が世界の主である。偶然こそが世界の原基であり、原基は生物世界にはその数だけ無数に存在する。
秘めた原基は揺るぎなくしかと頑強な箱に収められるべきである、誰にも開けられることのない構築の箱・・・否、簡単にこじ開けられる造りかも知れない。この不安定さ、主観と客観の壁(境界)の強固と脆さの共存の中で、わたくし(デュシャン)の停止原基はこのようであるという提示である。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
「僕等は一度噴火口の縁まで登て、暫時くは凄まじい穴を覗き込んだり四方の大観を恣にしたりしていたが、さすがに頂は風が寒くって堪らないので、穴から少し下りると阿蘇神社があるその傍に小さな小屋があって番茶位は呑ませてくれる、其処へ逃げ込んで団飯を齧って元気をつけて、又た噴火口まで登った。
☆目(ねらい)は套(おおわれ)逸(隠れているので)択(良し悪しを見てより出す)粉(まぎれて)秘(人に見せないように隠した)講(話)である。
掩(被われた)図りごとがある。
竄(文字・文章を変える)辞(言葉)を正しく決める。
詞(言葉)の個(一つ一つ)を試みると法(神仏の教え)に換(入れ替わる)。
詞(言葉)を調べ普く換(入れ替えること)を貫き決める章(文章)である。
化(教え導く)吾(わたくし)の素(本質的なもの)を審(正しいかどうかを明らかにし)赦(罪や過ちを許す)謀(図りごと)が正しい章(文章)也。
判(区別したもの)を査(明らかにする)意(考え)である。
呑(他を取り込む)記の諸(もろもろ)は、透(すけて見える)。
己(わたくし)の談(話)は半(二つに分けた一方)も決(立ちあがり)現れる。
記は幽(死者の世界)に粉(まぎれ込み)化(教え導く)講(話)を問うている。
そうとわかっていたら、わたしたちも、全従業員も、とっくに駈けつけていたことでしょうに!ただ、わたしたちは、呼ばれもしないのに朝っぱらから、たとえちょっと助け舟を出してあげて、すぐまた解散するだけであっても、お役人がたのまえに出ていく勇気がなかったのですわ。
☆大勢の人たちは救済を叫んだのです。長い間男女とも完全な人としてこちら(来世)を通り、ただ単にモルグ(身元不明者の死体公示所)に大勢の人たちが現れたときも同様に救済を叫んだのにすぐに消されてしまったのです。