『1-2-5』10×口Ⅳ
10×口って何だろう。
作品は口から吐き出された息、あるいは口へと吸いこむ周りの空気だろうか。
口(呼吸器官)には常に空気の振動があり、生命の基本、必須の働きとしての揺れがある。
10という数字は何を示唆しているのだろう。
10は「終わり、限り」を意味するが、単に「多いこと」だろうか。
《10×口》数えきれない、膨大な量(数)ということかもしれない。
人は生まれながらにその生涯において、星の数砂の数ほどの呼吸(振動)を余儀なくされている。
地球上の億という人々が各々空気を振動させている、振動は秘かにも至る所で発生しており、それが生きて在ることの証明でもある。
写真は『若林奮 振動と飛葉』展・図録より 神奈川県立近代美術館
昨日降った雪が未だ残っていて高低定まらぬ茅屋根の南の軒先からは雨滴が風に吹かれて舞うて落ちている。
☆策(計画)は仮の考えの説である。
魅(もののけ)の懺(罪の赦しを乞う)講(はなし)である。
諦(真理)は定(決まって)亡(死ぬこと)也。
千(たくさん)の有(存在)に適(当てはまる)。
訃報(死去の通知)を推しはかる無の絡(すじみち)である。
おまけに、置いたままになっている書類は、たいてい特別に大きな束だった。これは、ある種の自慢か悪意から、あるいは、同僚鼓舞をしようという正当な自負もあって、しばらくのあいだ置きっぱなしにしているのだろうとKは考えた。
☆その他の横たわっている(放置されている)文書は特別大きな包みで、自慢か悪意かあるいは権利を与えられることで一時的に平静になるようにという仕組みなのだとKは受け取った。
港に対する攻撃・・・港が( )によって攻撃され、ということである。
( )には何が入るだろう。
地球全体は十数枚のプレートの動き(移動)によって、変形を余儀なくされている。
わたし達は、断層への攻撃の不安に常におびえている。境界の質の差異(硬軟)によるずれの現象は痕跡が残るので目で確認できる場合もあるが、後の話である。
港(境界)が不測の事態を常に抱えているということは、地球の歴史であり、地球が生きていることの証明でもある。
《大いなる振動》
港に対する攻撃は地球全体が常に危惧せざるをえない問題である。
人類の発達、自然への思いあがった侵略は共存というより攻撃に転じることが有るかもしれず、自然も港に対する攻撃の手を超然として緩めることはないかもしれない。
この未来への予測と恐怖の重さが『港に対する攻撃』だと思う。
写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より 神奈川県立近代美術館
ちょうど三月の初めの頃であった。この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだに淋しいこの町が一段と物淋しい陰鬱な寒むそうな光景を呈していた。
☆散(自由気まま)に合わせる諸(もろもろ)の景(ようす)である。
何(いずれ)の他意も空(何もない)。
呑(取り込む)目(ねらい)は、訃(死去の通知)の業(身、口、意による善悪すべての行為、またそれが将来及ぼす影響、前世の悪行の報い)を推しはかる。
臨(その場やその時に合わせる)眺(ながめ)が逸(隠れている)談(話)である。
仏の倫(すじみち)を允(聞き届け)打つことが肝(かなめ)の講(話)を計(はかる)定(きまり)である。
ことによると、書類がいつまでもつんだままにしてあると、あとでほかの連中に分配されるというようなこともあるのであろうか。それで、いまからしきりに様子をのぞいては、書類がまだドアの前にあるかどうか、したがって、まだ自分にも希望があるかどうかを、確かめようというわけなのだろう。
☆もしかすると、死に向けられている書類がさらに遅れ、取り除かないでいると他の連中に分配されるというようなこともあるのだろうか。
今から調べたとしても納得できるだろうか。
文書は常に入口にあり常に希望は手元にあるのだけれど。
港の意味を考える・・・海と陸との接線、異なる領域が交わるところ。
本に見えるものが提示するものは・・・歴史というより思慮、思惑かもしれない。
攻撃とみられる量感ある物体は、外部からの圧力、予期せぬ襲撃。
以上を重ねてみると、個人的な空間をも想像することができる。自分の見解に対する否定、揶揄であり、港は自身である。
真上からの圧力ではないが吹きこんでくる猛威は自身にとっての脅威である。潰されていないが受け止めている攻撃、外部との《対峙》である。
自身のなかで育んだ経験値、情報の集積(学習)、自身の答えに対する外部の攻撃である。
《自画像》、自身を客観的に眺望した空気感ではないか。
大きな広い領域にもごく個人的な見解にも通用する『港に対する攻撃』は、作者の告白めく心情を含んでいる。
写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より 神奈川県立近代美術館
忘れえぬ人々
多摩川の二子の渡をわたって少しばかり行くと溝口という宿屋がある。その中程に亀屋という旅人宿がある。その中程に亀屋という旅人宿がある。
☆妄(でたらめ)で杜(根拠のない)度(悟りの世界)である。
汰(えらび分ける)魔(人を惑わせる)の千(沢山)の字(文字)がある。
詞(言葉)の図りごとは照(あまねく光があたる=平等)の講(話)である。
交わる講(話)は宿(前世)の状(ありさま)である。
注(書き記し)呈(差し出すのは)、鬼(亡霊)也。
慮(あれこれ思いめぐらす)図りごとは宿(前世)である。
もしかすると、この連中は、どうしたわけかこうしてドアのまえにつみあげられたままになっている書類の束をものほしげな眼でのぞいているのかもしれない。ドアをあけさえすれば書類を受けとれるのに、どうしてそうしないのか。解しかねているのだろう。
☆ひょっとすると、不思議なことに取り除かれず横たわっている文書の計画を熱望しているのは嘘かもしれない。いかに誰かが計画を公開することを必要としているか、文書を所有しさえすれば、しかし、彼はできないでいる。
港…一冊の本で表象しているということは、世界観を言葉に換言できることを前提にしている。そういう歴史観である。
港とは海と陸との接線であり、質も温度も異なる境界線である。
その港を攻撃するものは何だろう、世界の破壊を余儀なくされる可能性を持った強い威力。
当然、自然の猛威を予想する。雨風嵐・台風・地震の地球の揺れ(振動)。
作品は外部からの攻撃である。地球内部の振動ではなく、外部からの攻撃。
港とは海と陸との境であり、交易の場である、それを遮断するということだろうか。否、進入かも知れない。進撃の恐怖、歴史の変貌は常に外部からの圧力に因している。
『港に対する攻撃』、作品から見る攻撃は上から垂直に下りるものでなく、威力は予想されるが斜めからの力であれば、力は見た目以上に弱体化の態である。
この風(攻撃)は自然ではなく、人為的なエネルギーかもしれない。人類が港(世界)を攻撃するということである。言い換えれば《自然破壊》
海と大地とは常に揺れ動いている。港とはその総括であり、常に恐怖にさらされている。
写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より 神奈川県立近代美術館