カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。趣味さまざまなどを際限なく・・。

詩・・・雑感

2015-06-15 08:20:15 | 日記
 中学生の頃、国語の教科書に載っていた詩が好きで暗唱したりしていたことを思い出す。

 今でも、なん編かは声に出して言えるくらいだから多分抵抗もなくす~っと頭の中にしみ込んでいたのだろう。

 図書館から初めて詩集を借りて読んだ。

 
 寺山修司未発表詩集「秋たちぬ」田中未知(編)2014.11岩波書店(刊)

 中学から高校にかけてノートにイラスト入りで書き綴られていたものだが、本人は恥ずかしくて出せなかったものと云うことらしいが、若々しいなかに不思議な気分にさせられる詩が綴られている。

 例えば、S25年作<弘ちゃん>
  弘ちゃんを見舞いに行った
  縁側で弘ちゃんにえばらせた
  肺病で青く弱い
  弘ちゃんは笛を吹いた

  たった4行で相手の心境をおもんぱかる少年の心根を詩にできるとは凄い。

 S26年作<あのとき>
  どこかの
  こどもが
  ないていた。

  おんなのこは
  ふるさとのゆうぐれを
  むらさかいまで
  みおくってくれて
  なきながら
  わらってくれた。

  ぼくはうつむいて
  アカシアをかじりながら
  やはりわらった。

  みんなみんな
  うつくしかった。
  さようなら・・・・。
  またね

  あかいもみじのうえで
  そらがうたっていた。

 泣きながら笑うという心境は分かる気がするが表現は難しい。

 自分が今ここに、このように生きているという単純な事実に驚くだけの感受性がなければ詩は書けないということなのだろうか。

 だんだん大人になって社会の常識や理屈がこうした感性に勝つようになると詩は失われてしまうのだろう。

 詩でも、句でも、歌でも・・・作者の置かれた立場や状況などを知らしめて、歌や句が詠まれた所以を理解させようと云う書評や解説などは、ある意味では感性に訴えようとする趣旨とは真逆のことをしているのかも知れない。

 感性を送信してあるのなら感性で受信する。

 周波数は個人の持って生まれたもの、あるいは今の心境に共振した周波数で結構なのではないか・・・。

 「文末を ・・・にして迷う」

  にほんブログ村 オヤジ日記ブログへ
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする