5月の句会に参加するため熊本城の近くの会場に出かけた。
少し早めに家を出て、熊本城の二の丸広場まで歩いてみた。


(左から宇土櫓・小天守・天守閣)
天守閣付近には鋼製のやぐらを組む作業がなされていた。
手前の長い石垣の上にあった塀はみな倒れ、工事のための施設が見えていた。

(桜馬場から見る飯田丸)
角の石垣だけで支えられていた、一本足の飯田丸櫓も鋼製の部材で土台から持ち上げられ石垣や建物底部の修復を待っている。

(御幸坂手前から見る旧大手門前)
石垣の前部は崩落したが西側部分が無事で、辛うじてもっている櫓と、熊本城と掘られた石の標柱は台座と45度ズレたまま辛うじて建っているという、辛うじてコンビである。

二の丸手前の空堀には、崩落した石垣の部材に記録の表記がなされて次の再建のために整頓して置いてある。
これはまだほんの一部なので、すべてを掌握するのは多分容易ではなく、修復に20年以上が見込まれるのも頷ける。
文化財の保護と耐震性を考慮した修復のあり方等、城の歴史上何度か重ねられてきた熊本城修復の平成バージョンが後世の人々にどう評価されるかちょっと気になる。
今回の地震で崩れた部分は清正やその後の細川時代の石垣よりも、明治時代の地震後に陸軍などが修復した箇所に多くみられたという。
戦国時代から戦や地震など幾多の経験に裏打ちされて、築城技術は磨かれてきているのだ。
ここは先人の知恵と、地震に対する最新の知見も参考に災害に強い復興工事を追求して貰いたい。

にほんブログ村
少し早めに家を出て、熊本城の二の丸広場まで歩いてみた。


(左から宇土櫓・小天守・天守閣)
天守閣付近には鋼製のやぐらを組む作業がなされていた。
手前の長い石垣の上にあった塀はみな倒れ、工事のための施設が見えていた。

(桜馬場から見る飯田丸)
角の石垣だけで支えられていた、一本足の飯田丸櫓も鋼製の部材で土台から持ち上げられ石垣や建物底部の修復を待っている。

(御幸坂手前から見る旧大手門前)
石垣の前部は崩落したが西側部分が無事で、辛うじてもっている櫓と、熊本城と掘られた石の標柱は台座と45度ズレたまま辛うじて建っているという、辛うじてコンビである。

二の丸手前の空堀には、崩落した石垣の部材に記録の表記がなされて次の再建のために整頓して置いてある。
これはまだほんの一部なので、すべてを掌握するのは多分容易ではなく、修復に20年以上が見込まれるのも頷ける。
文化財の保護と耐震性を考慮した修復のあり方等、城の歴史上何度か重ねられてきた熊本城修復の平成バージョンが後世の人々にどう評価されるかちょっと気になる。
今回の地震で崩れた部分は清正やその後の細川時代の石垣よりも、明治時代の地震後に陸軍などが修復した箇所に多くみられたという。
戦国時代から戦や地震など幾多の経験に裏打ちされて、築城技術は磨かれてきているのだ。
ここは先人の知恵と、地震に対する最新の知見も参考に災害に強い復興工事を追求して貰いたい。

にほんブログ村