今日は72回目の終戦の日である。
72年前、泣き崩れて地面にひれ伏した人も居たろうし、天を仰いで眺めた空の青さを今更ながら感じた人もいただろう。
知る由もない身としては、自分ならどうしただろうと思いを巡らしたりしてみる。
当時の写真や残された文章から時代の空気を読み解くしかないので、多分同じようなリアクションをとっていただろう。
この頃言葉で伝えることの重要性と難しさを感じることが多くなった。
国のトップ同士の畳みかけるような脅しの言葉の応酬を見聞していると尚更である。
途中の言葉によるやり取りが省略されて、一足飛びに言葉をもって抑止力とする使い方なのだ。
どこか古典的な子供の喧嘩の前口上を彷彿とさせる。
この頃図書館から借りる本に「短歌・俳句・詩」などが多くなった。
沢山の情景や思いを詰め込んだ文章からどんどんそぎ落としていって、本当に必要な短切な言葉に磨き上げる作業が「詩」や短歌・俳句にはなされている。
「川柳」を創るようになってこうした自ら制限を加えた文章に興味が湧いてきた。
川柳と云えば、言葉の遊び感覚が際立った感があるが、「詩歌」に並ぶジャンルになり得る可能性はあると思っている。
「戦とは父が帰って来ないこと」
8月第1週(月)の朝刊に掲載された私の句である。
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72年前、泣き崩れて地面にひれ伏した人も居たろうし、天を仰いで眺めた空の青さを今更ながら感じた人もいただろう。
知る由もない身としては、自分ならどうしただろうと思いを巡らしたりしてみる。
当時の写真や残された文章から時代の空気を読み解くしかないので、多分同じようなリアクションをとっていただろう。
この頃言葉で伝えることの重要性と難しさを感じることが多くなった。
国のトップ同士の畳みかけるような脅しの言葉の応酬を見聞していると尚更である。
途中の言葉によるやり取りが省略されて、一足飛びに言葉をもって抑止力とする使い方なのだ。
どこか古典的な子供の喧嘩の前口上を彷彿とさせる。
この頃図書館から借りる本に「短歌・俳句・詩」などが多くなった。
沢山の情景や思いを詰め込んだ文章からどんどんそぎ落としていって、本当に必要な短切な言葉に磨き上げる作業が「詩」や短歌・俳句にはなされている。
「川柳」を創るようになってこうした自ら制限を加えた文章に興味が湧いてきた。
川柳と云えば、言葉の遊び感覚が際立った感があるが、「詩歌」に並ぶジャンルになり得る可能性はあると思っている。
「戦とは父が帰って来ないこと」
8月第1週(月)の朝刊に掲載された私の句である。
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