(「キオクのカケラたち(2)」のつづき)
石:それからねー林さんね、ほんとに残念がってる方が多くてですね、実はレコード各社の方々もえー来てるわけでございます。実はそのやっぱりあのレコード音楽番組というのはですねぇ、えー、レコード各社の力があってこそということで、本当にたくさんの方々がですねぇお見えなんですね、手を振ってください。
林:どうもありがとうございました。
池:それとねぇ、ぼくグッときちゃったのが、お手伝いしてくれてる女性の方でしょう、もう先ほどからもうすごいですよ、ミキサー室でシクシクシクシク。
石:ワーワーワーワーという声も聞こえておりますけれどもね。
林:泣かないぞ、ハハハ。
石:さて林さん、深夜の放送でHiHiHi(ハイハイハイ)、ハイスリーがありますけれどもね。
林:えぇ、ありますね。
石:ハイスリーからも銀之丞君をはじめスタッからプレゼント。
林:いやぼくはハイスリーはですね、ずいぶん肴にされましたよ。
石:そうですか。
林:殺人事件で殺されたりしましたし、いろんなことがありました。
石:ありましたですねぇ。実は花束来てるんですよ。
林:ぼくは銀ちゃんには恨みを持っておりまして、一度一緒に飲みに行こうと言って。あ、小野ディレクターからですね。花束どうも。
小:山崎からです。
林:どうもありがとうございました。恐縮です。どうもありがとうございました、ハイハイハイがんばってください。聴いております。
石:林さん、16年間というね、間なんですけども、私たちもですね、まだ経験したことのない大変ロングラン、えーしかも4千数十時間、4千数百時間ですか、にわたるですね、大変な時間を日曜日犠牲にしたと、言っても過言ではないと思うんですね。これをもって一番喜んでいらっしゃるのが奥様とそしてお子様ではないかということを今日ね、一日このお付き合いさせていただいて思ったんですよ。
池:来てるんですか?
石:え?実は!今日は来て…ないですね。
林:知らん顔です。
石:お宅のほうでごゆっくりとですね、放送聴いていただいてますね。
林:うちは母子家庭と言ってますから。
石:何を言ってるんですか。
池:で、やっぱり林さんから一言ほしいですね、最後に。
石:最後にラジオお聴きのみなさんに。
林:どうもありがとうございました。いや今日はあのスタジオにレコード関係の方、それからRKBの関係の方ですねぇ、いろんな方がいらっしゃっておりますけれども、ほんとにあの感謝をします。それとやはりあの16年間支えてくれましたあのみなさんのハガキですね、これがぼくの一番の健康のもと、リゲインでした。えー、本当にこれまでたくさんのリクエストカードありがとうございました。えー、これでお別れですけれども、このあと、石上アナウンサーがベスト50を担当します。これまで以上にどうぞよろしくお願いしたいと思います。最後に本当にありがとうございました。そしてさようなら。
(おつかれさまでした!の声と拍手)
(エンディングテーマフェードアウト)
(拍手の中で)
林:お聴きの放送はRKBラジオです
----------------------------
最後の「お聞きの放送はRKBラジオです」がとてもかっこいい。
「ヤンヤン歌うスタジオ」にも出ていた“池ちゃん”こと池田まさるさんは、番組では13時からの芸能情報コーナーを担当(通常は電話出演)していた。
浅井企画の所属だったと思うのだが、現在どうされているのだろうか。
番組は、翌週から「イシヤン」こと石上アナウンサーが担当し、1995年末まで続いた。
16年という歴史を引き継ぐ「大役」だったと思うのだが、「歌謡曲」自体が斜陽となっていく中、独自のカラーを出してよく健闘されたと思う。
調子の良さと優しさと毒を併せ持った「石上節」も、RKBラジオの歴史を語るうえで欠かせない要素のひとつだと思う。
なお、西田たかのりさんが「ニシヤン」と呼ばれているのは、石上さんの「イシヤン」の流れを汲んでいる…と勝手に思っている。
当時は、4時間50分の放送時間のうち3時間はトヨタ自動車がスポンサーとして付いていた(なお、土曜日の日産ワイドサタデーも、当時は2時間枠だった)。
運転免許を持ってない年代のリスナーも多かったと思うのだが、そういう層に対しても「トヨタ」のブランドイメージ浸透を企図していたと考えられる。
直接的な購入行動を訴求する“ラジオショッピング”が全盛の現在からは考えられないことだ。
リスナーの絶対数も予算も減り、このような形式の番組をいま成立させることはまず難しいと思うのだが、この頃の番組が持っていた手間を惜しまない姿勢やものづくりの精神は、いまの福岡のラジオにも思い返していただきたいものだ。
次は「ほがらかウィークリー」の最終回でも書き起こしてみるかな?(何年先になるかわかりませんが(笑))。
(つづく)
石:それからねー林さんね、ほんとに残念がってる方が多くてですね、実はレコード各社の方々もえー来てるわけでございます。実はそのやっぱりあのレコード音楽番組というのはですねぇ、えー、レコード各社の力があってこそということで、本当にたくさんの方々がですねぇお見えなんですね、手を振ってください。
林:どうもありがとうございました。
池:それとねぇ、ぼくグッときちゃったのが、お手伝いしてくれてる女性の方でしょう、もう先ほどからもうすごいですよ、ミキサー室でシクシクシクシク。
石:ワーワーワーワーという声も聞こえておりますけれどもね。
林:泣かないぞ、ハハハ。
石:さて林さん、深夜の放送でHiHiHi(ハイハイハイ)、ハイスリーがありますけれどもね。
林:えぇ、ありますね。
石:ハイスリーからも銀之丞君をはじめスタッからプレゼント。
林:いやぼくはハイスリーはですね、ずいぶん肴にされましたよ。
石:そうですか。
林:殺人事件で殺されたりしましたし、いろんなことがありました。
石:ありましたですねぇ。実は花束来てるんですよ。
林:ぼくは銀ちゃんには恨みを持っておりまして、一度一緒に飲みに行こうと言って。あ、小野ディレクターからですね。花束どうも。
小:山崎からです。
林:どうもありがとうございました。恐縮です。どうもありがとうございました、ハイハイハイがんばってください。聴いております。
石:林さん、16年間というね、間なんですけども、私たちもですね、まだ経験したことのない大変ロングラン、えーしかも4千数十時間、4千数百時間ですか、にわたるですね、大変な時間を日曜日犠牲にしたと、言っても過言ではないと思うんですね。これをもって一番喜んでいらっしゃるのが奥様とそしてお子様ではないかということを今日ね、一日このお付き合いさせていただいて思ったんですよ。
池:来てるんですか?
石:え?実は!今日は来て…ないですね。
林:知らん顔です。
石:お宅のほうでごゆっくりとですね、放送聴いていただいてますね。
林:うちは母子家庭と言ってますから。
石:何を言ってるんですか。
池:で、やっぱり林さんから一言ほしいですね、最後に。
石:最後にラジオお聴きのみなさんに。
林:どうもありがとうございました。いや今日はあのスタジオにレコード関係の方、それからRKBの関係の方ですねぇ、いろんな方がいらっしゃっておりますけれども、ほんとにあの感謝をします。それとやはりあの16年間支えてくれましたあのみなさんのハガキですね、これがぼくの一番の健康のもと、リゲインでした。えー、本当にこれまでたくさんのリクエストカードありがとうございました。えー、これでお別れですけれども、このあと、石上アナウンサーがベスト50を担当します。これまで以上にどうぞよろしくお願いしたいと思います。最後に本当にありがとうございました。そしてさようなら。
(おつかれさまでした!の声と拍手)
(エンディングテーマフェードアウト)
(拍手の中で)
林:お聴きの放送はRKBラジオです
----------------------------
最後の「お聞きの放送はRKBラジオです」がとてもかっこいい。
「ヤンヤン歌うスタジオ」にも出ていた“池ちゃん”こと池田まさるさんは、番組では13時からの芸能情報コーナーを担当(通常は電話出演)していた。
浅井企画の所属だったと思うのだが、現在どうされているのだろうか。
番組は、翌週から「イシヤン」こと石上アナウンサーが担当し、1995年末まで続いた。
16年という歴史を引き継ぐ「大役」だったと思うのだが、「歌謡曲」自体が斜陽となっていく中、独自のカラーを出してよく健闘されたと思う。
調子の良さと優しさと毒を併せ持った「石上節」も、RKBラジオの歴史を語るうえで欠かせない要素のひとつだと思う。
なお、西田たかのりさんが「ニシヤン」と呼ばれているのは、石上さんの「イシヤン」の流れを汲んでいる…と勝手に思っている。
当時は、4時間50分の放送時間のうち3時間はトヨタ自動車がスポンサーとして付いていた(なお、土曜日の日産ワイドサタデーも、当時は2時間枠だった)。
運転免許を持ってない年代のリスナーも多かったと思うのだが、そういう層に対しても「トヨタ」のブランドイメージ浸透を企図していたと考えられる。
直接的な購入行動を訴求する“ラジオショッピング”が全盛の現在からは考えられないことだ。
リスナーの絶対数も予算も減り、このような形式の番組をいま成立させることはまず難しいと思うのだが、この頃の番組が持っていた手間を惜しまない姿勢やものづくりの精神は、いまの福岡のラジオにも思い返していただきたいものだ。
次は「ほがらかウィークリー」の最終回でも書き起こしてみるかな?(何年先になるかわかりませんが(笑))。
(つづく)
音楽番組は本来、ラジオの強みだったと思いますけど、You Tubeなどネット動画の普及で、必要性が低くなりましたね。
昔はラジオか、書籍を購入しないとアメリカのヒットチャートなんて分からなかったのに、今は物好きの方が動画編集して最新チャートを紹介してくれる時代ですし・・・。
去年の年末から、全国的に過去の名番組の復活特番が多かったのですが、旧・ラジオたんぱでやっていた「ヤロメロ」の斉藤洋美さんと、KBS京都でやっていた「ハイヤング京都」のつボイノリオさんが、この秋からウン十年ぶりに番組のスタイルは変わりますが、始まったきっかけは特番での評判が異常に良かったからだそうです。
逆に言えば、ある年代から下の世代でラジオを聴いている人が少ないという、現状もある気がしますけど。
>多分、平成初期までにあったであろう、ラジオ番組作りのノウハウを、今の40歳より下の放送局関係者が受け継げない時代になっているような気がしてなりません。
>音楽番組は本来、ラジオの強みだったと思いますけど、You Tubeなどネット動画の普及で、必要性が低くなりましたね。
>昔はラジオか、書籍を購入しないとアメリカのヒットチャートなんて分からなかったのに、今は物好きの方が動画編集して最新チャートを紹介してくれる時代ですし・・・。
たしかにそうですね。
「ハガキがメイン」そして「歌謡曲が健在」の時代のノウハウを今に活かすのはなかなか難しいでしょうね。
>去年の年末から、全国的に過去の名番組の復活特番が多かったのですが、旧・ラジオたんぱでやっていた「ヤロメロ」の斉藤洋美さんと、KBS京都でやっていた「ハイヤング京都」のつボイノリオさんが、この秋からウン十年ぶりに番組のスタイルは変わりますが、始まったきっかけは特番での評判が異常に良かったからだそうです。
「PAO~N」の復活も特番がきっかでしたからね。
ただ、「復活」ということは、過去に人気があり、かつ現在再登板が可能な人…な訳ですが、そういう人も数に限りがあり、また、それだけ年齢も重ねている訳なので、この先何十年も「使える」人材ではないことを考えると、長期的な浮揚をもたらすまでには至らないのかもしれませんね。
>逆に言えば、ある年代から下の世代でラジオを聴いている人が少ないという、現状もある気がしますけど。
>
そうなんですよね。
「聴いている人が少ない」ことはすなわち、聴いている人のことを想像できる新たな喋り手がなかなか出てこないことを意味しているのでしょうね。