分裂病と躁鬱病のふたつの型に人を分類するとき,なぜスピノザが分裂病圏に入るといえるのか。それは『漱石,もう一つの宇宙』の著者である塚本嘉壽さんが書いている前回に紹介した文章の中に,「「永遠の相の下に」仕事をする分裂病圏の科学者」と書かれているからなのです。
これは,躁鬱病圏の科学者を説明するときに唐突に出てきます。永遠の相の下に,という部分がかぎ括弧で括られていますから,それが別に出典をもつということは理解できますが,これには何の説明もされていませんし,またこの部分に脚注がつけられているというわけでもありませんので,このことばを知らない人が読めば,そのまま通り過ぎてしまうかもしれません。そもそもこの本は,病跡学に興味がある人か,そうでなければ僕のように夏目漱石に興味がある人が主な読者層になっていると思いますので,あるいはそのまま読み飛ばしている方は,意外と多いかもしれません。
実はこの「永遠の相の下に」ということばは,『エチカ』の第二部定理四四系二に出てくるのです。「物をある永遠の相のもとに知覚することは理性の本性に属する」。
これにより,永遠の相の下というのは,少なくとも哲学の世界では,スピノザの哲学の代名詞のようなことばになっています。たぶん,一般に最も知られているスピノザのことばは,このことばではないかと思います。
したがって,塚本さんがこれを書いたとき,スピノザを意識していたことは間違いありません。よって少なくとも塚本さんが,スピノザは分裂病型に分類される哲学者であると考えていることは,間違いないところだと思われます。
病院のタイムスケジュールがどのようになっているのかということは後で詳しく説明しますが,朝の6時になりますと看護士が部屋に入ってきて,窓のカーテンを開けます。これはHCUでも一般病棟でも同様でした。したがって1月2日もこのようにして始まったということになります。
実をいいますとHCUという病室には,僕は病院のベッドに載せられたまま運ばれてきましたし,HCUから一般病棟へ移動するときにもこれは同様でした。そしてHCUではベッド上安静でベッドから下りることができなかったわけですから,僕はHCUの部屋の作りというのは分かりましたけれども,どんなに近くであってもこの部屋の外に出てみるということができませんでしたので,この部屋が病院内のどこにあったのかということを実は知りません。なので部屋自体が建物全体の中でどのような方角であったのかということも分からないのです。ただ,ベッドで僕が横になっている体勢から見れば,窓というのは左の一番奥,僕が仰向けになった場合の左の一番奥でした。部屋の作りに関してはすでに説明しましたが,僕のベッドからはこの左側の方が奥行きがありましたから,ベッドの上まで日が差し込んでくるということはありませんでした。
この部屋では朝一番で体温を計測したのですが,この1月2日の朝には僕の平熱に近いくらいありました。実は前日,病院に運ばれたときにも,血糖値が計測された後で,体温や血圧などの計測もあったのですが,そのときは僕の体温は35℃台でした。これは僕からすれば異常な低体温であったというべきで,ここからも僕の身体がかなりの危機に瀕していたということが理解できます。そして逆にいうならば,翌2日の朝の時点ですでに,僕ははっきりと快方に向っていたといえるのではないかと思います。
これは,躁鬱病圏の科学者を説明するときに唐突に出てきます。永遠の相の下に,という部分がかぎ括弧で括られていますから,それが別に出典をもつということは理解できますが,これには何の説明もされていませんし,またこの部分に脚注がつけられているというわけでもありませんので,このことばを知らない人が読めば,そのまま通り過ぎてしまうかもしれません。そもそもこの本は,病跡学に興味がある人か,そうでなければ僕のように夏目漱石に興味がある人が主な読者層になっていると思いますので,あるいはそのまま読み飛ばしている方は,意外と多いかもしれません。
実はこの「永遠の相の下に」ということばは,『エチカ』の第二部定理四四系二に出てくるのです。「物をある永遠の相のもとに知覚することは理性の本性に属する」。
これにより,永遠の相の下というのは,少なくとも哲学の世界では,スピノザの哲学の代名詞のようなことばになっています。たぶん,一般に最も知られているスピノザのことばは,このことばではないかと思います。
したがって,塚本さんがこれを書いたとき,スピノザを意識していたことは間違いありません。よって少なくとも塚本さんが,スピノザは分裂病型に分類される哲学者であると考えていることは,間違いないところだと思われます。
病院のタイムスケジュールがどのようになっているのかということは後で詳しく説明しますが,朝の6時になりますと看護士が部屋に入ってきて,窓のカーテンを開けます。これはHCUでも一般病棟でも同様でした。したがって1月2日もこのようにして始まったということになります。
実をいいますとHCUという病室には,僕は病院のベッドに載せられたまま運ばれてきましたし,HCUから一般病棟へ移動するときにもこれは同様でした。そしてHCUではベッド上安静でベッドから下りることができなかったわけですから,僕はHCUの部屋の作りというのは分かりましたけれども,どんなに近くであってもこの部屋の外に出てみるということができませんでしたので,この部屋が病院内のどこにあったのかということを実は知りません。なので部屋自体が建物全体の中でどのような方角であったのかということも分からないのです。ただ,ベッドで僕が横になっている体勢から見れば,窓というのは左の一番奥,僕が仰向けになった場合の左の一番奥でした。部屋の作りに関してはすでに説明しましたが,僕のベッドからはこの左側の方が奥行きがありましたから,ベッドの上まで日が差し込んでくるということはありませんでした。
この部屋では朝一番で体温を計測したのですが,この1月2日の朝には僕の平熱に近いくらいありました。実は前日,病院に運ばれたときにも,血糖値が計測された後で,体温や血圧などの計測もあったのですが,そのときは僕の体温は35℃台でした。これは僕からすれば異常な低体温であったというべきで,ここからも僕の身体がかなりの危機に瀕していたということが理解できます。そして逆にいうならば,翌2日の朝の時点ですでに,僕ははっきりと快方に向っていたといえるのではないかと思います。