第20期棋王戦五番勝負第三局より。

第1図は妙手が出る少し前の局面。3七の桂が跳ねたところで,攻めと同時に☖1九龍とされたときに☗7八飛と逃げた手が龍取りになるようにした一石二鳥の手。ここで後手は13分考えて☖8五歩と打ちました。これには☗7七銀と逃げる一手。今度はノータイムで☖5四角(第2図)。

実はこの角打ちが俗手のようで妙手。ここでは☗5二歩成として,☖8七角成☗同玉☖8九龍に☗7六玉と逃げておけばまだ難しかったのですが,角を打った狙いが☖8七角成しかないように思えますのでそれを☗7六歩と受けました。しかしそこで☖3六角。実はこう銀を取るのが☖5四角の真の狙い。部分的には大して働きのない銀をわざわざ角を打って取るのですから大損なのですが,☗同馬とさせれば,実戦の☖1九龍に☗7八飛が龍取りになりません。そこで☖8六香と入手した香車をすぐに打つことができ,☗同銀☖同歩☗同金に☖6七銀(第3図)と攻めが続きます。

先手はこの局面で4分考えて☗4六馬と戻りましたが,これでは大事なところでパスがあったも同然。☖7八銀成以下,素早く寄せきった後手の勝ちとなりました。
こうした理由により,今回の考察の主旨である経験論を展開する前に,第二部定理四九系を論理的な観点から先に証明しておくことにしますが,これを証明する前に,この系Corollarium自体についていくつか確認しておきたいこと,あるいは確認しておいた方がよいと思うことがありますので,まずそれらのことに関して若干の説明を与えておくことにします。
最初に,知性intellectusと意志voluntasが同一であるというとき,スピノザは知性とはどういうもので,また意志とはどういうものであると考えているのかということについてです。そしてこれについてはスピノザ自身がその証明Demonstratioの中で説明を与えています。これによれば,まず最初に知性とは,個々の観念ideaのことであるとされています。したがってあるもの,たとえばAの知性とは,Aのうちにある客観的有esse objectivum,すなわち観念の総体であるということになります。
これについては,神Deusについて考えるのが最も理解しやすいだろうと思います。第二部定理七系は,神のうちにある観念がすべて十全な観念idea adaequataであるという意味を示したものですが,これを離れて,この系から,神のうちには無限に多くのinfinita観念があるということが理解できます。なぜなら,第一部定理一六により,神の本性divinae naturaeからは無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じますが,それら生じるすべてのものの観念もまた神のうちにあるということになるからです。
このように,無限に多くの仕方で生じる無限に多くのものの観念によって構成されているから,神の知性はとくに無限知性intellectus infinitusといわれるわけです。知性というものが個々の観念であるといわれるとき,まず第一には,このように,無限に多くの仕方で生じる無限に多くのものの観念を有する客観的有,あるいは思惟の様態cogitandi modiが,神の知性,無限知性であるということを意味していると僕は考えています。

第1図は妙手が出る少し前の局面。3七の桂が跳ねたところで,攻めと同時に☖1九龍とされたときに☗7八飛と逃げた手が龍取りになるようにした一石二鳥の手。ここで後手は13分考えて☖8五歩と打ちました。これには☗7七銀と逃げる一手。今度はノータイムで☖5四角(第2図)。

実はこの角打ちが俗手のようで妙手。ここでは☗5二歩成として,☖8七角成☗同玉☖8九龍に☗7六玉と逃げておけばまだ難しかったのですが,角を打った狙いが☖8七角成しかないように思えますのでそれを☗7六歩と受けました。しかしそこで☖3六角。実はこう銀を取るのが☖5四角の真の狙い。部分的には大して働きのない銀をわざわざ角を打って取るのですから大損なのですが,☗同馬とさせれば,実戦の☖1九龍に☗7八飛が龍取りになりません。そこで☖8六香と入手した香車をすぐに打つことができ,☗同銀☖同歩☗同金に☖6七銀(第3図)と攻めが続きます。

先手はこの局面で4分考えて☗4六馬と戻りましたが,これでは大事なところでパスがあったも同然。☖7八銀成以下,素早く寄せきった後手の勝ちとなりました。
こうした理由により,今回の考察の主旨である経験論を展開する前に,第二部定理四九系を論理的な観点から先に証明しておくことにしますが,これを証明する前に,この系Corollarium自体についていくつか確認しておきたいこと,あるいは確認しておいた方がよいと思うことがありますので,まずそれらのことに関して若干の説明を与えておくことにします。
最初に,知性intellectusと意志voluntasが同一であるというとき,スピノザは知性とはどういうもので,また意志とはどういうものであると考えているのかということについてです。そしてこれについてはスピノザ自身がその証明Demonstratioの中で説明を与えています。これによれば,まず最初に知性とは,個々の観念ideaのことであるとされています。したがってあるもの,たとえばAの知性とは,Aのうちにある客観的有esse objectivum,すなわち観念の総体であるということになります。
これについては,神Deusについて考えるのが最も理解しやすいだろうと思います。第二部定理七系は,神のうちにある観念がすべて十全な観念idea adaequataであるという意味を示したものですが,これを離れて,この系から,神のうちには無限に多くのinfinita観念があるということが理解できます。なぜなら,第一部定理一六により,神の本性divinae naturaeからは無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じますが,それら生じるすべてのものの観念もまた神のうちにあるということになるからです。
このように,無限に多くの仕方で生じる無限に多くのものの観念によって構成されているから,神の知性はとくに無限知性intellectus infinitusといわれるわけです。知性というものが個々の観念であるといわれるとき,まず第一には,このように,無限に多くの仕方で生じる無限に多くのものの観念を有する客観的有,あるいは思惟の様態cogitandi modiが,神の知性,無限知性であるということを意味していると僕は考えています。