論争の理由のひとつは,人間が他者のことばを正しく理解しないからだというのがスピノザの考え方です。したがってスピノザは,もしもそれを正しく理解できるのであれば,細かな言い間違いというのは何の問題も引き起こさないと考えています。これは論争の理由について論じた第二部定理四七備考で,その直前に表明しています。
スピノザがあげている例は,「うちの座敷が隣の鶏に飛び込んだ」ということばを聞いたけれども,スピノザ自身はそう言った人が誤っているとは少しも思わなかったというものです。この人はうちの鶏が隣の座敷に飛び込んだと言いたかったのを,座敷と鶏を取り違えて言ってしまっただけであると,スピノザ自身はたちどころに理解したからです。こうした理解はおそらくほとんどの人間に可能であって,だからそのことは指摘するまでもないことなのです。
最近はテレビを視ていますと,こうした些細な言い間違いや,いわゆる噛むということを誇張する場面が多く見受けられます。テレビはそれを笑いのネタにするのですから,別にそれをどうこういうつもりはありません。ただ,日常生活でもこうしたことが散見されます。僕も言い間違えたり噛んだりすることがありますが,それを指摘されるとげんなりとします。意味さえ伝わればそれでいいではないかと考えるからで,ときとしてまともに話をするような気が失せてしまうこともあるのです。
ネット上でも些細な書き間違いを訂正するようなものがあります。文章は残るものですから,言い間違いを咎めるのとは意味合いが違うことは理解できます。理解できるのですが,なぜわざわざそんなことだけを指摘するのかを不思議に感じることもあります。
いくらなんでも相手が誤っていると信じているからこうした傾向が発生しているとは思いません。それでもこういうことが多く見受けられるようになった背景のひとつとして,もしかしたら人間が他者の発したことばを正しく理解する能力が低下しているということが遠因となっているのではないだろうか,あるいは言い間違いや書き間違いを本気で誤謬と考える人が増えているからではないだろうかと思わずにもいられないのです。
第一部定理二八備考でスピノザが示していることは,第一部定理二五備考の一文がなぜ成立するといえるのかということを検討した内容から,その大部分がすでに明らかになっているといえるのではないでしょうか。というのは,たとえば半円がその直径を軸として一回転するということが原因となって球が結果として発生するということを,神が自己原因であるがゆえに実在するということと同一の力において理解するということは,要するに球の発生に対しての原因である半円の回転を,神の変状であると理解しなければならないということを含んでいると思われるからです。そしてまさにこのような意味において,球の発生に関して,神は最近原因,それも絶対的な最近原因であるということになるでしょう。
ここでは現在の考察との関連から,球の発生というのを例にとって考察したわけですが,もちろんこのことは球の発生だけに限定して成立するというわけではありません。たとえば円がその直径によって二分されることによって半円が発生するという場合にも,円の二分ということが神の変状として理解されなければならないということは,球の発生の場合と同様の論理によって帰結します。そしてこのことは,球の発生を含むような無限連鎖のすべての過程において成立することになるでしょう。
したがって,これを一般的にいうならば,第一部定理二八であれ第二部定理九であれ,その無限連鎖のどの一部分を抽出したとしても,神が絶対的な最近原因となって個物ないしは個物の観念が発生するというように理解されなければならないということになります。そしてこのことが,第一部定理二八備考で言及されている事柄の,具体的な意味になると僕は考えます。
このことが,スピノザが事物の定義はその発生を含まなければならないというとき,その発生というのを直接的な原因だけで構わないと考えることができた大きな要因となっていることは,もう一目で明らかだといっていいのではないでしょうか。なぜなら,直接的原因というのは絶対的な最近原因にほかならないわけで,それが神であると考えられなければならないのであるとすれば,その直接的な原因が結果に対して,それだけで十全な原因となっているというように理解することができるからです。いい換えればそれ以上の発生というものを十全に認識することは不要であるということになるでしょう。
スピノザがあげている例は,「うちの座敷が隣の鶏に飛び込んだ」ということばを聞いたけれども,スピノザ自身はそう言った人が誤っているとは少しも思わなかったというものです。この人はうちの鶏が隣の座敷に飛び込んだと言いたかったのを,座敷と鶏を取り違えて言ってしまっただけであると,スピノザ自身はたちどころに理解したからです。こうした理解はおそらくほとんどの人間に可能であって,だからそのことは指摘するまでもないことなのです。
最近はテレビを視ていますと,こうした些細な言い間違いや,いわゆる噛むということを誇張する場面が多く見受けられます。テレビはそれを笑いのネタにするのですから,別にそれをどうこういうつもりはありません。ただ,日常生活でもこうしたことが散見されます。僕も言い間違えたり噛んだりすることがありますが,それを指摘されるとげんなりとします。意味さえ伝わればそれでいいではないかと考えるからで,ときとしてまともに話をするような気が失せてしまうこともあるのです。
ネット上でも些細な書き間違いを訂正するようなものがあります。文章は残るものですから,言い間違いを咎めるのとは意味合いが違うことは理解できます。理解できるのですが,なぜわざわざそんなことだけを指摘するのかを不思議に感じることもあります。
いくらなんでも相手が誤っていると信じているからこうした傾向が発生しているとは思いません。それでもこういうことが多く見受けられるようになった背景のひとつとして,もしかしたら人間が他者の発したことばを正しく理解する能力が低下しているということが遠因となっているのではないだろうか,あるいは言い間違いや書き間違いを本気で誤謬と考える人が増えているからではないだろうかと思わずにもいられないのです。
第一部定理二八備考でスピノザが示していることは,第一部定理二五備考の一文がなぜ成立するといえるのかということを検討した内容から,その大部分がすでに明らかになっているといえるのではないでしょうか。というのは,たとえば半円がその直径を軸として一回転するということが原因となって球が結果として発生するということを,神が自己原因であるがゆえに実在するということと同一の力において理解するということは,要するに球の発生に対しての原因である半円の回転を,神の変状であると理解しなければならないということを含んでいると思われるからです。そしてまさにこのような意味において,球の発生に関して,神は最近原因,それも絶対的な最近原因であるということになるでしょう。
ここでは現在の考察との関連から,球の発生というのを例にとって考察したわけですが,もちろんこのことは球の発生だけに限定して成立するというわけではありません。たとえば円がその直径によって二分されることによって半円が発生するという場合にも,円の二分ということが神の変状として理解されなければならないということは,球の発生の場合と同様の論理によって帰結します。そしてこのことは,球の発生を含むような無限連鎖のすべての過程において成立することになるでしょう。
したがって,これを一般的にいうならば,第一部定理二八であれ第二部定理九であれ,その無限連鎖のどの一部分を抽出したとしても,神が絶対的な最近原因となって個物ないしは個物の観念が発生するというように理解されなければならないということになります。そしてこのことが,第一部定理二八備考で言及されている事柄の,具体的な意味になると僕は考えます。
このことが,スピノザが事物の定義はその発生を含まなければならないというとき,その発生というのを直接的な原因だけで構わないと考えることができた大きな要因となっていることは,もう一目で明らかだといっていいのではないでしょうか。なぜなら,直接的原因というのは絶対的な最近原因にほかならないわけで,それが神であると考えられなければならないのであるとすれば,その直接的な原因が結果に対して,それだけで十全な原因となっているというように理解することができるからです。いい換えればそれ以上の発生というものを十全に認識することは不要であるということになるでしょう。