スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&自己原因の場合

2011-09-13 19:05:50 | 将棋
 今夏の暑さを上回る熱戦を繰り広げてきたシリーズもいよいよクライマックス。第52期王位戦七番勝負第七局。
 改めての振駒広瀬章人王位の先手。早々に四間飛車を明示すると羽生善治二冠も居飛車を選択。相穴熊となりました。
 今日は途中経過も見ることができず,ようやく接続したときには第1図。
                       
 玉の堅さが違うので,見た瞬間は後手の方がいいのだろうなと思いました。▲5二飛にと金にヒモをつける△4九銀。検討したのは▲3九金や▲3九香と受ける手で,指されたのは▲5一飛打という攻め合い含みの手。いろいろ考えられるところですが△4六歩は候補のひとつ。▲同馬は玉が弱体化しますが,局面自体では最も指したい手だと思います。そこで△3八歩と垂らしましたが,この手は考えていませんでした。このと金攻めは受かりません。受からないなら攻めるよりなく,こういう場合は▲3五香が部分的な手筋。しかしこの局面ではさすがに間に合いそうもなく,先手が窮したと思いました。そして実戦の指し手も▲3五香でしたので,ここからは検討なしの観戦モード。ほぼ予想したような手の連続となり,後手が押し切りました。
 4勝3敗で羽生二冠が4期ぶりの王位復位を達成し三冠に。名人は奪われたわけですが,それが力の衰えではないということをしっかりと証明してみせました。広瀬前王位は期待している棋士だけに個人的には残念ですが,今の将棋界でトップクラスの力を有しているということは,シリーズを通して明らかにすることができたのではないかと思います。
                       

 問題となってくるのは,スピノザが事物の定義は定義された事物の発生を含んでいなければならないというときに,この無限連鎖のすべてを視野に入れてそのように規定しているのかどうかということです。第一部公理四個物の観念に適用される場合にはそれは第二部定理九の仕方で説明されなければなりません。この観点からみれば,この無限連鎖のすべてを視野に入れるのでなければ,個物の観念の発生というのを十全には説明できないように思われます。しかし,結論から先にいってしまえば,スピノザはそのようなことは視野に入れていないのだろうと僕は考えています。そこで,僕がそのように考える根拠というのを説明します。
 これは思惟の様態には限りませんが,第一部公理三によれば,もしもあるものが発生するということがあるなら,それが発生する原因というのがあるのでなければなりません。このとき,その原因というのは,発生する事物自身のうちにあるか,それとも外部にあるかのどちらかです。これはそれ自体で明白なことだと思います。
 もしも事物の発生がそれ自身のうちに含まれている場合,要するにこれは第一部定義一によりその事物が自己原因であるという場合のことですが,この場合は発生する原因と発生する結果というものが同じものです。いい換えれば,そのものの発生を考えるために,知性は発生するそのもの以外のものに関しては何も認識せずとも,そのものの発生を概念することができます。いい換えればこうしたものはそのものの定義のうちにそのもの自身の発生が含まれているということになるでしょう。たとえば第一部定義六というのは,僕はそれ自体で実在的な定義であると考えているわけですが,この定義自身の中に定義されているもの,すなわち神,ないしは絶対に無限な実体の発生が含まれているということになります。よってこうしたものに関してはこれで何の問題も生じません。
 しかし,それが発生する原因というのがそれ自身の外部にあるという場合にはこういうわけにはいきません。その定義がそのものの発生を含むためには,まさにそれを発生させる外部の原因がその定義のうちに含まれていなければならないのです。いい換えれば,こうしたものはほかのものの認識がなければ,十全には認識され得ないでしょう。
コメント
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