信濃町の明治記念館での対局となった第2期女流王座戦五番勝負第二局。
加藤桃子女流王座の先手で本田小百合女流三段の一手損角換り1-Ⅰに。相腰掛銀となり,後手から仕掛けたもののその直後に後手が最善の手段を逸したようで先手がリード。後手も大きくは離されないようについていきましたが,先手がリードしたままで最終盤に突入しました。
この局面は先手玉が詰まないので,▲3ニ飛と打てばそのまま決まっていたようです。しかし▲2二銀と王手にいきました。△同玉にさらに▲3三金と打ち,△同桂と捨ててから▲3二飛。△1三玉に▲3三とと詰めろを掛けました。
ここは△9七角と打ち,▲同香は詰みなので▲8八桂と打たせ,それから△2一金と受ければ先手の駒台から桂馬が消えて後手の勝ちだったようです。しかし単に△2一金と受けたため,即詰みが残っていて先手の勝ちとなりました。せっかく離されずに追ってきて,逆転まで持ち込んだだけに,本田三段としては残念な一局でしょう。
加藤女流王座が連勝で防衛に王手。第三局は10日です。
第二部定理九系の消極的意味が成立していると仮定して,今度はこれを第二部定理一二に応用します。
第二部定理九系で対象ideatumの観念といわれているもの,いい換えれば原因に相当するものは第二部定理一二ではある人間の精神です。一方,結果に相当するもの,すなわち第二部定理九系で対象ideatumの中に起こることの観念といわれているものは,第二部定理一二においてはその精神の現実的有を構成する対象ideatumの中に起こることの観念です。この点に関しては今回も特段の説明は加えません。なお,このいい方は煩雑ですので,第二部定理一三を援用して,対象ideatumのことを身体ということにします。
第二部定理九系の消極的意味は,第二部定理九の無限連鎖を前提とした上で帰結したものです。したがってこの前提が第二部定理一二にも成立するのでなければなりません。すなわちこの定理でいわれている人間の精神,いい換えれば人間の身体の観念というのは,現実的に存在する個物の観念の無限連鎖を前提とした上で,神のうちにあるある人間の身体の観念という意味になり,その人間の身体の観念,すなわちその人間の精神に変状しただけの神という意味ではなくなります。いい換えれば,この定理に導入される原因の十全性の意味というのは,無限連鎖を前提とした上で神のうちにある観念に関して導入されているのであって,ある人間の精神とかある人間の身体そのものに導入されるわけではないということになります。
ただし,このことのうちには,人間の精神ならびに身体の原因の十全性という観点を,完全に排除してしまうということが含まれているというわけではありません。むしろ,単に人間の精神および身体をそれ自体でみるならば,それが十全な原因であるという場合もあるけれども,部分的原因となっている場合も含まれるということを意味します。つまり,ある人間の身体の観念を有しているだけの神という意味と,ある人間の身体の観念を有するとともに,ほかのものの観念を有するような神というふたつの意味が含まれているということです。精神や身体は,前者であれば十全な原因で,後者の場合には部分的原因であるということは説明不要でしょう。
加藤桃子女流王座の先手で本田小百合女流三段の一手損角換り1-Ⅰに。相腰掛銀となり,後手から仕掛けたもののその直後に後手が最善の手段を逸したようで先手がリード。後手も大きくは離されないようについていきましたが,先手がリードしたままで最終盤に突入しました。
この局面は先手玉が詰まないので,▲3ニ飛と打てばそのまま決まっていたようです。しかし▲2二銀と王手にいきました。△同玉にさらに▲3三金と打ち,△同桂と捨ててから▲3二飛。△1三玉に▲3三とと詰めろを掛けました。
ここは△9七角と打ち,▲同香は詰みなので▲8八桂と打たせ,それから△2一金と受ければ先手の駒台から桂馬が消えて後手の勝ちだったようです。しかし単に△2一金と受けたため,即詰みが残っていて先手の勝ちとなりました。せっかく離されずに追ってきて,逆転まで持ち込んだだけに,本田三段としては残念な一局でしょう。
加藤女流王座が連勝で防衛に王手。第三局は10日です。
第二部定理九系の消極的意味が成立していると仮定して,今度はこれを第二部定理一二に応用します。
第二部定理九系で対象ideatumの観念といわれているもの,いい換えれば原因に相当するものは第二部定理一二ではある人間の精神です。一方,結果に相当するもの,すなわち第二部定理九系で対象ideatumの中に起こることの観念といわれているものは,第二部定理一二においてはその精神の現実的有を構成する対象ideatumの中に起こることの観念です。この点に関しては今回も特段の説明は加えません。なお,このいい方は煩雑ですので,第二部定理一三を援用して,対象ideatumのことを身体ということにします。
第二部定理九系の消極的意味は,第二部定理九の無限連鎖を前提とした上で帰結したものです。したがってこの前提が第二部定理一二にも成立するのでなければなりません。すなわちこの定理でいわれている人間の精神,いい換えれば人間の身体の観念というのは,現実的に存在する個物の観念の無限連鎖を前提とした上で,神のうちにあるある人間の身体の観念という意味になり,その人間の身体の観念,すなわちその人間の精神に変状しただけの神という意味ではなくなります。いい換えれば,この定理に導入される原因の十全性の意味というのは,無限連鎖を前提とした上で神のうちにある観念に関して導入されているのであって,ある人間の精神とかある人間の身体そのものに導入されるわけではないということになります。
ただし,このことのうちには,人間の精神ならびに身体の原因の十全性という観点を,完全に排除してしまうということが含まれているというわけではありません。むしろ,単に人間の精神および身体をそれ自体でみるならば,それが十全な原因であるという場合もあるけれども,部分的原因となっている場合も含まれるということを意味します。つまり,ある人間の身体の観念を有しているだけの神という意味と,ある人間の身体の観念を有するとともに,ほかのものの観念を有するような神というふたつの意味が含まれているということです。精神や身体は,前者であれば十全な原因で,後者の場合には部分的原因であるということは説明不要でしょう。