スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新人王戦&基本命題

2012-11-02 18:17:02 | 将棋
 10月31日に指された第43回新人王戦決勝三番勝負第三局。
 振駒で先手は藤森哲也四段。永瀬拓矢五段の角道オープン四間飛車となり先手から角交換しての相穴熊戦に。後手が先に意表の生角を打ったのに対し,先手は歩損の代償に馬を作って後手の玉頭方面から先攻する展開となりました。
                         
 2六にいた飛車が回って戦力を集中させたところ。ここで後手は☖8四金と力強く受けたのですが,結果的にいえばこの手が勝因となったように思います。先手は☗9五歩☖同歩と突き捨ててから☗7四銀と進出。後手は☖7五歩でこれは用意の受け。こうなっては☗同馬☖同金☗同飛までは仕方がないと思えますが☖7三歩。そこで☗9三歩と打つのが勝負手だったそうですが逃して☗6三銀成。これには☖4五角が絶好で☗5四歩☖同角☗6四成銀に☖2七角成。
                         
 あまり働いていなかったような角が馬に出世して,ここは後手がよさそうです。後手はこの後,もう1枚馬を作り,2枚の馬を自陣に引きつけて盤石の布陣。先手の猛攻を凌いだところで反撃に転じ,勝利を収めました。
 2勝1敗で永瀬五段が優勝。28日の加古川青流戦に続いて2度めの棋戦優勝。今年度の新人賞は当確でしょうか。
 藤森四段は先手を得た二局とも☗2六歩☖3四歩に☗2五歩でした。理由がない指し方ではありませんが,個人的にはこの手順を連発したことを残念に感じています。

 最後に,たぶんこれが最も重要な点になるかと思いますが,そもそもスピノザによる第二部定理九系の記述の内容から,第二部定理九系の消極的意味というのを読解することが可能であるのかということです。これについてはまずは一般論から考えます。
 もしもAの観念ideaを有する限りで神DeusのうちにXの観念があるという基本命題がスピノザから与えられているとしたら,まず第一にこのAの観念とXの観念は共に十全な観念idea adaequataであるということが前提されているということになります。これは第二部定理七系の意味からそうでなければなりません。このいわば大前提に関しては,第二部定理九系の消極的意味は明らかに従っています。
 つまり最大の問題は,上述の基本命題のうちに,Aの観念を有するだけで神のうちにXの観念があるというように解するべきなのか,それともAの観念を有しているなら神のうちにXの観念もあるというように解するべきなのかという点にあります。もしも前者であるなら,第二部定理九の消極的意味が成立し得ないことは明白であると思います。そもそも僕はこうした意味においてこの基本命題を理解したからこそ,第二部定理九系,ひいては第二部定理一二をもこの路線で読解し,そのゆえに第二部定理一二が『エチカ』における最大の難題として生じたのです。
 しかし,この基本命題をむしろ後者の意味で読解するということは,可能であるのか不可能であるのかといえば,必ずしも不可能であるとはいえないようにも思うようになりました。というのも,~の限りでの神とスピノザがいうとき,それは基本的にはその~に変状した神という意味であって,そう理解するならば後者の意味は考えられないことになるのですが,ごく一般的な言語の記述という観点からみてみるならば,~の限りで,という記述が~だけで,というように理解されなければならないということはなく,~であればというように理解されるような余地が明らかにあるように思われるからです。
 とくにこれを第二部定理九系に持ち込む場合,後者の意味が成立すると考えられる根拠がほかにもあるのです。しかしこの根拠を示すためには,考察をさらに進めていかなければなりません。
コメント
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