2週連続で中部地区での記念競輪開催となり,今日は大垣記念の決勝。並びは上原ー神山-朝倉の関東,深谷-志智の中部に藤田,稲垣に佐藤で荒井が単騎。
スタートは朝倉が取って上原の前受け。4番手に深谷,7番手に稲垣,最後尾に荒井で周回。残り3周のバックから早くも稲垣が上昇。しかし上原が引かず,ホームからバックにかけてずっと併走状態。バックに入ってようやく上原が引き,稲垣が単独で先頭に立ったところで深谷が発進。そのままスピードを緩めず打鐘からのかまし先行に。4番手は稲垣でしたが車間が大きく開いてしまいバックになっても詰まらず。こうなっては前3人の争い。番手から志智が抜け出して優勝。2着はきわどくなりましたが逃げた深谷で藤田が3着。
優勝した岐阜の志智俊夫選手は2007年の岸和田記念以来となる記念競輪2勝目。すでに40歳の中堅からベテランの域に入っている選手で,正直なところ最も強かった頃の力はすでにないと思います。自分のことだけ考えれば深谷は抑え先行の方がよかったと思いますが,地元である志智の優勝でも構わないという姿勢からかましたものでしょう。上原の作戦がどういったものだったのか不可解ですが,展開にも非常に恵まれました。
ここまでの諸条件をすべて満たすような形で,今度は第二部定理一二の意味を考えてみます。
ある人間の身体の中に生じることの観念は,その人間の精神の本性を構成する神と関連付けられるならば,それは必然的に神のうちにあります。よって第二部定理一一系の意味からして,人間は自分の身体の中に起こることを必然的に認識するということになります。
しかしこの場合には,この人間の精神による自分の身体の中に起こることの認識は,必ず十全な認識であるとはいえません。なぜなら神はこの人間の精神と関連付けられているならば必然的にその身体の中に起こることを認識するとはいえ,その関連のされ方にはいくつかのパターンが考えられるからです。
もしもある人間の精神の本性を構成するだけでの神のうちにその人間の身体の中に起こることの観念があるなら,その場合にはこの人間は自分の身体の中に起こることというのを十全に認識するということになります。しかしもしもある人間の精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念も有している神のうちにその身体の中に起こることの観念があると説明されなければならない場合には,むしろこの人間は自分の身体の中に起こることを混乱して認識する,すなわちこれを概念と知覚とを厳密に峻別した場合の意味において,知覚するということになるでしょう。
これはちょうど,第二部定理九系の意味が第二部定理九系の消極的意味に変容したのと同じだけの意味の変容が第二部定理一二にももたらされるということを意味します。ここでは第二部定理一二は第二部定理九系から直接的に帰結すると考えていますし,また第二部定理一二は第二部定理九系が一般的な意味において示している事柄を,ある具体的なものに適用しているという結論から考察していますので,このこと自体は至極当たり前のことであるといえるとは思います。
現時点では僕は,第二部定理一二というのは,この新しい意味において理解されるべきなのだろうし,またこの路線で理解するほかはないと考えています。これでこの定理の問題がすべて解決されるわけではありませんが,僕にとってその重みは幾分か軽くなっています。
スタートは朝倉が取って上原の前受け。4番手に深谷,7番手に稲垣,最後尾に荒井で周回。残り3周のバックから早くも稲垣が上昇。しかし上原が引かず,ホームからバックにかけてずっと併走状態。バックに入ってようやく上原が引き,稲垣が単独で先頭に立ったところで深谷が発進。そのままスピードを緩めず打鐘からのかまし先行に。4番手は稲垣でしたが車間が大きく開いてしまいバックになっても詰まらず。こうなっては前3人の争い。番手から志智が抜け出して優勝。2着はきわどくなりましたが逃げた深谷で藤田が3着。
優勝した岐阜の志智俊夫選手は2007年の岸和田記念以来となる記念競輪2勝目。すでに40歳の中堅からベテランの域に入っている選手で,正直なところ最も強かった頃の力はすでにないと思います。自分のことだけ考えれば深谷は抑え先行の方がよかったと思いますが,地元である志智の優勝でも構わないという姿勢からかましたものでしょう。上原の作戦がどういったものだったのか不可解ですが,展開にも非常に恵まれました。
ここまでの諸条件をすべて満たすような形で,今度は第二部定理一二の意味を考えてみます。
ある人間の身体の中に生じることの観念は,その人間の精神の本性を構成する神と関連付けられるならば,それは必然的に神のうちにあります。よって第二部定理一一系の意味からして,人間は自分の身体の中に起こることを必然的に認識するということになります。
しかしこの場合には,この人間の精神による自分の身体の中に起こることの認識は,必ず十全な認識であるとはいえません。なぜなら神はこの人間の精神と関連付けられているならば必然的にその身体の中に起こることを認識するとはいえ,その関連のされ方にはいくつかのパターンが考えられるからです。
もしもある人間の精神の本性を構成するだけでの神のうちにその人間の身体の中に起こることの観念があるなら,その場合にはこの人間は自分の身体の中に起こることというのを十全に認識するということになります。しかしもしもある人間の精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念も有している神のうちにその身体の中に起こることの観念があると説明されなければならない場合には,むしろこの人間は自分の身体の中に起こることを混乱して認識する,すなわちこれを概念と知覚とを厳密に峻別した場合の意味において,知覚するということになるでしょう。
これはちょうど,第二部定理九系の意味が第二部定理九系の消極的意味に変容したのと同じだけの意味の変容が第二部定理一二にももたらされるということを意味します。ここでは第二部定理一二は第二部定理九系から直接的に帰結すると考えていますし,また第二部定理一二は第二部定理九系が一般的な意味において示している事柄を,ある具体的なものに適用しているという結論から考察していますので,このこと自体は至極当たり前のことであるといえるとは思います。
現時点では僕は,第二部定理一二というのは,この新しい意味において理解されるべきなのだろうし,またこの路線で理解するほかはないと考えています。これでこの定理の問題がすべて解決されるわけではありませんが,僕にとってその重みは幾分か軽くなっています。