スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&松田克進の主張

2012-11-30 19:05:25 | 将棋
 一昨日から2日間にわたって新潟県南魚沼市で指された第25期竜王戦七番勝負第五局。
 丸山忠久九段の先手で角換り相腰掛銀。先手が先に入城し,後手の渡辺明竜王が先攻する将棋に。この戦型の後手で先攻できれば満足でしょう。
 評判はずっと後手有利でしたが,僕のレベルでは難解な局面が延々と続き,最後の最後ですっぱりと決まったという印象の一局です。
                         
 ▲7ニ飛の王手に△4二銀と打った局面。先手は▲4九香の田楽刺し。ただし△5五角は王手です。▲6六金と上がり,当てて受けるのは当然でしょう。後手は△8七歩成▲同歩と8八の地点を空け,△5九角の王手。▲6八歩と打たせて作った空間に△8八銀。▲6七玉はこの一手ですが△1九角成が決め手でした。
                         
 普通はこんなところの香車を取る手はないのですが,この場合,飛車で取ると横効きが消えるのが大きく後手が勝ちそう。ということで先手も攻め合ったのですが,飛車も取った後手の勝ちに。鮮やかな収束でした。
                         
 4勝1敗で渡辺竜王の防衛。竜王就位は第17期。以来,18,19,20,21,22,23,24と防衛を重ね実にこれで9連覇。もはや渡辺明という棋士の代名詞になった感。年明けの王将戦の挑戦者に決定していて,再び二冠を目指すことになります。

 『スピノザの形而上学』という題名からも理解できるように,松田克進の関心と僕の現在の考察における関心とは大きな隔たりがあります。よって松田がどのような論理展開で第二部定理一一系の新しい意味が成立すると主張しているかはここでは触れません。その結論の部分と,この考察と関連する部分だけを抽出します。
                         
 この場合に松田の主張の中心は,次の点にあります。現実的に存在する人間の精神というのは,この場合には精神と知性とを厳密に分けて人間の知性といった方が分かりやすいかもしれませんので,人間の知性はといいますが,いくつかの十全な観念と,それ以外の混乱した観念によって組織されているひとつの思惟の個物です。よって,こうした意味において人間の精神の本性を構成する神といわれるのであれば,その神のうちには人間の知性が有している十全な観念と混乱した観念の両方が含まれていると考えなければならないのです。とくに前にスルーした部分,すなわち神が人間の精神の本性によって説明される限りというときの,説明という部分に力点を置くのであれば,確かにこのように考えなければ,神は人間の精神によって説明されてはいないということになるでしょう。
 僕はこの主張というのはなかなか迫力があるものだと思います。当然ながら松田は,第二部定理一二でいわれている人間の精神というものが,現実的に存在するといわれる意味での人間の精神であるということをここでは考慮に入れていません。しかし,第二部定理九が神の無限知性を構成すると考えることによって第二部定理九系の消極的意味が生じ,そこから第二部定理一二の新しい意味がまた生じるということは,これまでの考察のポイントで,ここから現状の課題も出てきていますから,僕はこのことを前提とします。そしてこのことを前提条件としてみた場合には,松田のこの主張というものがもつ迫力は,さらに増してくるように僕には思えるのです。なぜなら,人間の精神が現実的に存在するといわれるような,いい換えれば持続するといわれるような存在形態を取る場合には,確かにその有は,十全な観念と混乱した観念の両方によって構成されているということになるからです。
コメント
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