11日に迎賓館の和風別館で指された第2回叡王戦決勝三番勝負第二局。
佐藤天彦名人の先手で急戦矢倉。先手での急戦矢倉は最近では珍しい戦型ではないかと思います。後手の千田翔太五段も積極的に攻め合う対応をしました。

8筋を突き捨てた後手が8七に歩を打ち,先手は6六に角を逃げて後手が飛車を走った局面。
攻めの継続を図るなら☗4四銀ですがそれは無理とのこと。ならば受けに回ることになりますが☗5九金と寄りました。この手が好手で先手の勝因のひとつになったのではないかと僕は思っています。
後手が☖6五桂と跳ねたのに対して先手は☗7七桂とぶつけました。
ここは☖同桂成から激しく攻めていくのが有力で,あるいは最善だったかもしれません。しかし☖8八歩成と成り捨ててから☗同金に☖7七桂成と迂回しました。単に☖7七同桂成だと☗同金と取る余地が先手に残るのを防いだ意味。この場合は飛車を成られてしまうので☗同角の一手です。
飛車取りなので☖8五飛と逃げ,先手はまた☗6六角と上がりました。一歩は捨てましたが手番は握れたのでそう悪い交換ではなかったと思いますが,意外と攻める手は難しかったのかもしれません。☖8六歩と垂らしました。
先手はそこで☗4四銀。これは単なる攻め合いではなく銀の入手を見込んだ手。☖8七歩成のときに☗3三銀不成☖同桂と交換して☗9六銀と打ちました。
ここは放置して角を狙いにいく方がよかったかもしれませんが☖6五飛と逃げたので☗8七銀で先手はと金を取れました。

ここで後手は☖5四桂から攻めていきましたが足りませんでした。☖5五銀から攻めていくのも芳しくないようなので,第2図は少し先手がよいのでしょう。後手はこの陣形で戦うのは難しいのかもしれません。
佐藤名人が連勝で優勝。2011年の新人王戦以来となる3度目の棋戦優勝です。
第五部定理四〇証明の手続きからすると,もし神Deusの属性attributumに包容される限りにおいては同一の本性essentiaを有するふたつの個物res singularisが現実的に存在する場合には,より能動的であるものの方がより完全であるということは理解できます。おそらくより完全な人間の精神mens humanaとそうでない人間の精神が現実的に存在することは多くの人が認めるところなのであって,この人間観については異論は出てこないものと思います。ただスピノザの哲学においては,この相違が,より完全な人間の身体corpusとそうでない人間の身体の相違と同じ関係にあるというだけです。
しかし,神の属性に包容される限りで異なった本性を有する複数の個物が現実的に存在するという場合に,この定理Propositioをそのまま適用することが可能であるとまではいえないかもしれません。もちろん形式的にはより能動的であるほどより完全であるとはいえるわけですが,ある個物が能動的になし得る事柄は,本性の相違に比例して異なるからです。たとえばカラスは能動的に飛ぶことが可能かもしれません。ですが人にはそれは不可能です。このゆえにカラスの方が人よりも完全であるということはできないでしょう。それとは逆に,人は能動的に難解な数式を解きますが,カラスにとってそれは不可能です。ですがこのゆえに人間の方がカラスよりも完全であるということもできないといわなければなりません。
よって人間がほかのものより完全であるということをいうためには,少なくとも能動的になし得る事柄が他よりも多いということ,他面からいえば他が受動的にしかなし得ない事柄の多くを人間は能動的になし得るということを示し,かつその相違が第五部定理四〇に適用し得るということを示さなければならないのです。
スピノザの哲学においては,各々のものがなし得る事柄がそのものの力potentiaであり,これを政治論に適用すると権利jusとみなされます。すなわちそれが自然権jus naturale,naturale jusです。いい換えれば哲学的な意味の力と政治論的な意味の権利は同義です。そしてなし得る事柄を自然権とみなす限りにおいて,人間には人間に固有の自然権があるように,ライオンにはライオンの自然権があるというように考えることができます。
佐藤天彦名人の先手で急戦矢倉。先手での急戦矢倉は最近では珍しい戦型ではないかと思います。後手の千田翔太五段も積極的に攻め合う対応をしました。

8筋を突き捨てた後手が8七に歩を打ち,先手は6六に角を逃げて後手が飛車を走った局面。
攻めの継続を図るなら☗4四銀ですがそれは無理とのこと。ならば受けに回ることになりますが☗5九金と寄りました。この手が好手で先手の勝因のひとつになったのではないかと僕は思っています。
後手が☖6五桂と跳ねたのに対して先手は☗7七桂とぶつけました。
ここは☖同桂成から激しく攻めていくのが有力で,あるいは最善だったかもしれません。しかし☖8八歩成と成り捨ててから☗同金に☖7七桂成と迂回しました。単に☖7七同桂成だと☗同金と取る余地が先手に残るのを防いだ意味。この場合は飛車を成られてしまうので☗同角の一手です。
飛車取りなので☖8五飛と逃げ,先手はまた☗6六角と上がりました。一歩は捨てましたが手番は握れたのでそう悪い交換ではなかったと思いますが,意外と攻める手は難しかったのかもしれません。☖8六歩と垂らしました。
先手はそこで☗4四銀。これは単なる攻め合いではなく銀の入手を見込んだ手。☖8七歩成のときに☗3三銀不成☖同桂と交換して☗9六銀と打ちました。
ここは放置して角を狙いにいく方がよかったかもしれませんが☖6五飛と逃げたので☗8七銀で先手はと金を取れました。

ここで後手は☖5四桂から攻めていきましたが足りませんでした。☖5五銀から攻めていくのも芳しくないようなので,第2図は少し先手がよいのでしょう。後手はこの陣形で戦うのは難しいのかもしれません。
佐藤名人が連勝で優勝。2011年の新人王戦以来となる3度目の棋戦優勝です。
第五部定理四〇証明の手続きからすると,もし神Deusの属性attributumに包容される限りにおいては同一の本性essentiaを有するふたつの個物res singularisが現実的に存在する場合には,より能動的であるものの方がより完全であるということは理解できます。おそらくより完全な人間の精神mens humanaとそうでない人間の精神が現実的に存在することは多くの人が認めるところなのであって,この人間観については異論は出てこないものと思います。ただスピノザの哲学においては,この相違が,より完全な人間の身体corpusとそうでない人間の身体の相違と同じ関係にあるというだけです。
しかし,神の属性に包容される限りで異なった本性を有する複数の個物が現実的に存在するという場合に,この定理Propositioをそのまま適用することが可能であるとまではいえないかもしれません。もちろん形式的にはより能動的であるほどより完全であるとはいえるわけですが,ある個物が能動的になし得る事柄は,本性の相違に比例して異なるからです。たとえばカラスは能動的に飛ぶことが可能かもしれません。ですが人にはそれは不可能です。このゆえにカラスの方が人よりも完全であるということはできないでしょう。それとは逆に,人は能動的に難解な数式を解きますが,カラスにとってそれは不可能です。ですがこのゆえに人間の方がカラスよりも完全であるということもできないといわなければなりません。
よって人間がほかのものより完全であるということをいうためには,少なくとも能動的になし得る事柄が他よりも多いということ,他面からいえば他が受動的にしかなし得ない事柄の多くを人間は能動的になし得るということを示し,かつその相違が第五部定理四〇に適用し得るということを示さなければならないのです。
スピノザの哲学においては,各々のものがなし得る事柄がそのものの力potentiaであり,これを政治論に適用すると権利jusとみなされます。すなわちそれが自然権jus naturale,naturale jusです。いい換えれば哲学的な意味の力と政治論的な意味の権利は同義です。そしてなし得る事柄を自然権とみなす限りにおいて,人間には人間に固有の自然権があるように,ライオンにはライオンの自然権があるというように考えることができます。