第四部定理五七では,高慢な人間が愛するのは阿諛追従の徒であるとされ,逆に憎むのは寛仁generositasの人であるとされています。僕は適当な訳が思い浮かばないので寛仁という語をそのまま畠中に倣って使用します。そこである人が寛仁であるということがどういう意味を有しているのかを説明しておきましょう。すでにいったように寛仁というのは欲望cupiditasの一種なので,それはどういう欲望を有する人が寛仁の人といわれるのかという意味です。

これは第三部定理五九備考に示されています。
「妥当に認識する限りにおける精神に関係する諸感情から生ずるすべての活動を,私は精神の強さに帰する。そしてこの精神の強さを勇気と寛仁とに分かつ。(Omnes actiones, quae sequuntur ex affectibus, qui ad Mentem referuntur, quatenus intelligit, ad Fortitudinem refero, quam in Animositatem, et Generositatem distinguo.)勇気とは各人が単に理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望であると私は解する。これに対して寛仁とは各人が単に理性の指図に従って他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望であると解する」。
十全な観念から生じるあらゆる欲望は精神の強さFortitudinemといわれます。このうち,認識する人,つまり欲望する人の利益に関わる欲望は勇気Animositatemといわれます。そして認識する人すなわち欲望する人以外の利益にも関わる場合には,寛仁Generositatemといわれるのです。
精神Mentemが事物を十全に認識することは,第三部定理三から分かるように精神の能動Mentis actionesと関係します。すなわち精神の能動によって何らかの欲望が生じるとき,そうした欲望は精神の強さといわれます。ただ,精神の強さというのをそれ自体で欲望とみるのは変かもしれませんから,備考にあるように,そうした欲望は精神の強さに帰せられるといった方がいいかもしれません。
第三部定理五九は,精神の能動と関係する欲望が存在するということを示します。ですからそうした欲望が精神の強さに帰せられるというのは,不条理なことではありません。勇気という欲望と寛仁という欲望が,特別なふたつの欲望であるということが,この備考からみてとれます。
共通の自然法lex naturalisから優劣のある自然権jus naturale,naturale jusが発生すると仮定します。もし僕たちがそのように認識したならば,そうした自然法に対して劣った自然権を発生させないような自然法を希求することになるでしょう。他面からいえばそういう自然法を認識することになるでしょう。法概念というのはそういうものだからです。
いうまでもなく僕がここでしているのは仮定の話です。もしも知性intellectusが「唯一」にして共通の自然法を十全に認識するなら,優劣のある自然権を認識するということは不可能です。これは必然と不可能が対義語であることに注意すれば簡単に理解できる筈です。自然法が「唯一」で共通であるなら,そこから生じる自然権はいずれも必然的に生じるのです。したがって僕たちがそれをどのように表象するimaginariかということを別にすれば,その自然権には優劣はありません。いい換えればこの場合の優劣は,自然権そのものに内在する性質としてあるのではなく,表象上のものとしてあるということになります。僕がこういう仮定の話をするのは,分かりやすくするために,結果の方から原因に遡及する説明をしているからです。
この自然法と自然権の関係が,神Deusの本性の必然性necessitasと各々のものの本性の間にも適用されることになります。つまりもしも各々のものの本性に優劣の差が生じるのであれば,そうした優劣を生じさせない必然性すなわち自然法則lex naturalisが要求されることになります。これは神のために要求されるのです。なぜなら,劣ったものいい換えるなら不完全な本性を発生させる神と,完全なものだけを発生させる神とを比較して,どちらが完全な神であるかというなら,当然それは完全なものだけを発生させる神であるということになるからです。なのでフェルトホイゼンLambert van Velthuysenやフーゴー・ボクセルのように,各々のものの本性の間に完全性perfectioの差異があるという見方は,かえって神に不完全性を帰すことになると僕は考えるのです。逆にいえばスピノザが第二部定義六で,完全性を実在性と等置させたのは,この種の不完全性が神に付与されるのを避けるためだったともいえるでしょう。
スピノザはおそらく,デカルトもこの種の過ちを犯していると考えています。

これは第三部定理五九備考に示されています。
「妥当に認識する限りにおける精神に関係する諸感情から生ずるすべての活動を,私は精神の強さに帰する。そしてこの精神の強さを勇気と寛仁とに分かつ。(Omnes actiones, quae sequuntur ex affectibus, qui ad Mentem referuntur, quatenus intelligit, ad Fortitudinem refero, quam in Animositatem, et Generositatem distinguo.)勇気とは各人が単に理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望であると私は解する。これに対して寛仁とは各人が単に理性の指図に従って他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望であると解する」。
十全な観念から生じるあらゆる欲望は精神の強さFortitudinemといわれます。このうち,認識する人,つまり欲望する人の利益に関わる欲望は勇気Animositatemといわれます。そして認識する人すなわち欲望する人以外の利益にも関わる場合には,寛仁Generositatemといわれるのです。
精神Mentemが事物を十全に認識することは,第三部定理三から分かるように精神の能動Mentis actionesと関係します。すなわち精神の能動によって何らかの欲望が生じるとき,そうした欲望は精神の強さといわれます。ただ,精神の強さというのをそれ自体で欲望とみるのは変かもしれませんから,備考にあるように,そうした欲望は精神の強さに帰せられるといった方がいいかもしれません。
第三部定理五九は,精神の能動と関係する欲望が存在するということを示します。ですからそうした欲望が精神の強さに帰せられるというのは,不条理なことではありません。勇気という欲望と寛仁という欲望が,特別なふたつの欲望であるということが,この備考からみてとれます。
共通の自然法lex naturalisから優劣のある自然権jus naturale,naturale jusが発生すると仮定します。もし僕たちがそのように認識したならば,そうした自然法に対して劣った自然権を発生させないような自然法を希求することになるでしょう。他面からいえばそういう自然法を認識することになるでしょう。法概念というのはそういうものだからです。
いうまでもなく僕がここでしているのは仮定の話です。もしも知性intellectusが「唯一」にして共通の自然法を十全に認識するなら,優劣のある自然権を認識するということは不可能です。これは必然と不可能が対義語であることに注意すれば簡単に理解できる筈です。自然法が「唯一」で共通であるなら,そこから生じる自然権はいずれも必然的に生じるのです。したがって僕たちがそれをどのように表象するimaginariかということを別にすれば,その自然権には優劣はありません。いい換えればこの場合の優劣は,自然権そのものに内在する性質としてあるのではなく,表象上のものとしてあるということになります。僕がこういう仮定の話をするのは,分かりやすくするために,結果の方から原因に遡及する説明をしているからです。
この自然法と自然権の関係が,神Deusの本性の必然性necessitasと各々のものの本性の間にも適用されることになります。つまりもしも各々のものの本性に優劣の差が生じるのであれば,そうした優劣を生じさせない必然性すなわち自然法則lex naturalisが要求されることになります。これは神のために要求されるのです。なぜなら,劣ったものいい換えるなら不完全な本性を発生させる神と,完全なものだけを発生させる神とを比較して,どちらが完全な神であるかというなら,当然それは完全なものだけを発生させる神であるということになるからです。なのでフェルトホイゼンLambert van Velthuysenやフーゴー・ボクセルのように,各々のものの本性の間に完全性perfectioの差異があるという見方は,かえって神に不完全性を帰すことになると僕は考えるのです。逆にいえばスピノザが第二部定義六で,完全性を実在性と等置させたのは,この種の不完全性が神に付与されるのを避けるためだったともいえるでしょう。
スピノザはおそらく,デカルトもこの種の過ちを犯していると考えています。