被災地支援競輪として実施された伊東温泉記念の昨日の決勝。並びは深谷に新田,山形‐高原の徳島,松岡‐筒井‐西岡の西国で安部と後閑は単騎。
互いに見合うような発走となりましたが深谷がスタートを取って前受け。3番手に松岡,6番手に後閑,7番手に山形,最後尾に安部という周回に。残り3周のホームから山形が上昇。安部が続き,その後ろに後閑も切り替え,バックで深谷を叩きました。深谷はすぐに引いたので5番手に松岡,8番手に深谷の一列棒状に。残り2周のホームから深谷が早くも巻き返し。山形も抵抗しましたがバックで深谷が叩いて前に出て打鐘。6番手になった単騎の後閑が発進し,ホームでは深谷を叩いて前に。後ろにいた松岡がこれを追い,割り込んだ高原が筒井の後ろ,捌かれた西岡が高原の後ろという隊列でバックへ。深谷はインで包まれて後退。思わぬ展開になりましたが,番手を無風で回るレースになった松岡が直線入口から踏み込んで優勝。マークの筒井が4分の3車身差の2着で西国ラインのワンツー。後方から単騎で捲った安部が1車輪差で3着。
優勝した熊本の松岡貴久選手はこれが記念競輪初優勝。メンバー構成では深谷の力が断然で,普通に走れば勝つだろうと思われました。ただ,地元の新田を連れていたこともあり,もしかしたら強引なレースをする可能性もあるとも予測でき,その場合にはだれが勝ってもおかしくないような力関係。後閑が早めに自力を使って先行するということ自体が意外な展開で,後閑が発進したときに松岡が直後にいたのは偶然だったと思います。おそらく自分で行くことを考えていた筈で,その前に後閑が行ってくれましたので,とても楽な展開になりました。
神の観念を有する人間が存在することから,神が存在するということを証明するために,デカルトはふたつの公理を用いています。ひとつはより大きなことあるいは困難なことをなし得るものは,より小さなこともなし得るというものです。もうひとつは,実体を創造しまた維持することは,実体の属性や特質を創造しまた維持することより大きなことであるというものです。

このうちふたつめの公理に関しては注意を要します。第一部定義四から明らかなように,属性というのはPer attributumスピノザの哲学にあっては実体substantiaの本性essentiamのことです。だから実体を創造するというのと属性を創造するというのは,同じ意味でなければなりません。ですからどちらが大きくてどちらが小さいか,いい換えればどちらが困難であってどちらが容易であるのかということを比較することはできません。このことはあるものと別のものを比較するのは知性intellectusであるということと,第一部公理五からして,たとえ単一の実体が多数の属性によって本性を構成されるとしても,ある属性と別の属性は実在的にrealiter区別されて認識されるということに注意すれば明白です。ただ,デカルトの哲学ではこのような意味においては属性が実体の本性を構成するとは規定されていないのです。ですからここでデカルトがいっている属性については,スピノザの哲学における属性として解してはなりません。おそらくデカルトは特質proprietasは本性から流出するという意味において本性に相対するものであるということは是認していると思われますから,デカルトがより小さなことあるいはより容易なことといっているのは,そのような意味での特質だと解しておくのがいいでしょう。これならばスピノザの哲学とも齟齬を来しません。
スピノザはデカルトがこれらふたつの公理を用いて論証することに異議を唱えているのです。これを詳述するためにはデカルトの論証自体がどのようなものであるかを説明する必要があります。しかし僕はここではスピノザの反論自体を検討したいわけではないのでそれはしません。そして僕の見解だけでいえば,論証への反駁としては,スピノザが備考の冒頭部分でいっていることだけで十分な筈です。
互いに見合うような発走となりましたが深谷がスタートを取って前受け。3番手に松岡,6番手に後閑,7番手に山形,最後尾に安部という周回に。残り3周のホームから山形が上昇。安部が続き,その後ろに後閑も切り替え,バックで深谷を叩きました。深谷はすぐに引いたので5番手に松岡,8番手に深谷の一列棒状に。残り2周のホームから深谷が早くも巻き返し。山形も抵抗しましたがバックで深谷が叩いて前に出て打鐘。6番手になった単騎の後閑が発進し,ホームでは深谷を叩いて前に。後ろにいた松岡がこれを追い,割り込んだ高原が筒井の後ろ,捌かれた西岡が高原の後ろという隊列でバックへ。深谷はインで包まれて後退。思わぬ展開になりましたが,番手を無風で回るレースになった松岡が直線入口から踏み込んで優勝。マークの筒井が4分の3車身差の2着で西国ラインのワンツー。後方から単騎で捲った安部が1車輪差で3着。
優勝した熊本の松岡貴久選手はこれが記念競輪初優勝。メンバー構成では深谷の力が断然で,普通に走れば勝つだろうと思われました。ただ,地元の新田を連れていたこともあり,もしかしたら強引なレースをする可能性もあるとも予測でき,その場合にはだれが勝ってもおかしくないような力関係。後閑が早めに自力を使って先行するということ自体が意外な展開で,後閑が発進したときに松岡が直後にいたのは偶然だったと思います。おそらく自分で行くことを考えていた筈で,その前に後閑が行ってくれましたので,とても楽な展開になりました。
神の観念を有する人間が存在することから,神が存在するということを証明するために,デカルトはふたつの公理を用いています。ひとつはより大きなことあるいは困難なことをなし得るものは,より小さなこともなし得るというものです。もうひとつは,実体を創造しまた維持することは,実体の属性や特質を創造しまた維持することより大きなことであるというものです。

このうちふたつめの公理に関しては注意を要します。第一部定義四から明らかなように,属性というのはPer attributumスピノザの哲学にあっては実体substantiaの本性essentiamのことです。だから実体を創造するというのと属性を創造するというのは,同じ意味でなければなりません。ですからどちらが大きくてどちらが小さいか,いい換えればどちらが困難であってどちらが容易であるのかということを比較することはできません。このことはあるものと別のものを比較するのは知性intellectusであるということと,第一部公理五からして,たとえ単一の実体が多数の属性によって本性を構成されるとしても,ある属性と別の属性は実在的にrealiter区別されて認識されるということに注意すれば明白です。ただ,デカルトの哲学ではこのような意味においては属性が実体の本性を構成するとは規定されていないのです。ですからここでデカルトがいっている属性については,スピノザの哲学における属性として解してはなりません。おそらくデカルトは特質proprietasは本性から流出するという意味において本性に相対するものであるということは是認していると思われますから,デカルトがより小さなことあるいはより容易なことといっているのは,そのような意味での特質だと解しておくのがいいでしょう。これならばスピノザの哲学とも齟齬を来しません。
スピノザはデカルトがこれらふたつの公理を用いて論証することに異議を唱えているのです。これを詳述するためにはデカルトの論証自体がどのようなものであるかを説明する必要があります。しかし僕はここではスピノザの反論自体を検討したいわけではないのでそれはしません。そして僕の見解だけでいえば,論証への反駁としては,スピノザが備考の冒頭部分でいっていることだけで十分な筈です。