スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部定理一四&第五部定理四〇の意味

2016-12-27 19:08:40 | 哲学
 第三部定理一五は,たとえどんなものであったとしても,それが偶然によって僕たちの基本感情affectus primariiの原因になり得るということを示しています。つまり僕たちは表象するimaginariどんなものに対しても,何らかの感情を抱く可能性があるということです。なぜ人間にそのようなことが起こり得るのかということを説明するための前提となっているのが,その直前の第三部定理一四です。
                                     
 「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら,精神はあとでその中の一つに刺激される場合,他の一つにも刺激されるであろう」。
 この定理Propositioが第三部定理一五の論証Demonstratioの前提となり得ることは明白でしょう。すなわち,たとえば僕たちがあるものXを表象したときに,Aという感情に刺激される,他面からいえばAという感情を抱くと仮定します。その同じ人間が,かつてAという感情によってBという別の感情を惹起された経験があったとしたら,その人間は後にXを表象してAという感情を抱いた場合にもBという感情を惹起されるというのが第三部定理一四のいっていることです。よってこの人間は後にXを表象したとき,AだけでなくBという感情も抱きます。このとき,Aという感情についてはXが偶然の原因とはいえないでしょうが,Bという感情についてはXは偶然の原因としかいいようがありません。というのはこの仮定から明らかなように,もしこの人間がかつてAによってBを惹起されていなかったなら,Xを表象してBという感情を抱くことはなく,Aという感情だけを抱くであろうからです。
 なお,この定理では感情といわれていますが,これは身体corpusの刺激状態およびその観念ideaである身体の変状corporis affectionesと解しておく方が安全であるように僕には思われます。というのも僕たちが事物を表象するのは身体的には刺激状態ですが,それは必ずしも感情とはいえない,少なくとも感情として意識されない場合があるだろうからです。第二部定理一八で想起されるものの方が感情として意識される場合のことがここでいわれているのだと僕は解します。

 難易度と完全性perfectioの関係について僕が是認できる事柄を,そのまま頻度に適用できるのだと仮定すれば,僕は頻度に関しても完全性と関係づけることを是認できます。すなわち一般にものは能動的であることは少なく,受動的であることは多いとするなら,一般的に頻度が少ないほど完全であることを是認します。また,同一本性を有するものを具体的に抽出し,そのものについて同じことがいわれ得るなら,頻度の少なさがそのものがより完全であるということと関係するということも認めます。
 ただ,いずれの場合にしても,より完全であるということの規準は能動と受動の差異にしかありません。なのでこれ以外に困難なことと容易なことを抽出したり,頻繁に生じることとあまり生じないことを抽出したとしても,それはものの完全性の差異には何も関係しないと僕は考えます。つまり第五部定理四〇は,第一には何をより完全であるのかを規定する意味を有しているのであり,同時にこれ以外の意味では完全性の差異は決定できないという意味を有しているというのが僕の解釈です。
 さらに,能動actioと受動passioは,難易度と同様に,原因と関連していわれます。すなわち十全な原因causa adaequataである場合が能動で,部分的原因causa inadaepuata,causa partialisである場合が受動です。ですからこの場合には,やはり同一の本性natura,essentiaを有するものの間でという限定が必要になりますが,各々の能動ないしは受動によって生じる結果については,何がより完全であるのかということには関係しません。極端にいえば,同一の結果が生じるのだとしても,十全な原因から生じる場合には部分的原因から生じる場合よりも完全であると僕はみなします。たとえば人間についていうなら,理性ratioによって敬虔pietasである人間は,聖書に服従obedientia,obsequium,obtemperantiaすることによって敬虔である人間よりも完全であると僕はみなします。というか,第五部定理四〇のうちには,このような意味が含まれていなければならないと僕は解します。この例でいえば,敬虔であるということは人間が完全であるかないかということとは関係ありません。理性による能動に従っているか,聖書による受動に従っているかの差異だけが,完全性の差異に直結すると解するということです。
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