六日町温泉で指された第29期竜王戦七番勝負第七局。
振駒で渡辺明竜王の先手。こうなれば丸山忠久九段の一手損角換り。4の△2二銀で,先手が態度を保留しているうちに後手が早繰り銀から棒銀に組み替え端を狙う将棋。最初から棒銀だったと仮定すると,後手は7筋で歩を交換して8四に引き,さらに9筋に出て先手に歩を突かせてまた引き,その後で仕掛けたという勘定。もしかしたらこれは手損が大きすぎる攻め方だったのかもしれません。
棒銀定番の銀香交換から後手が端に香車を打った局面。先手は▲6八金右と固めました。ここから後手が本格的な攻撃を開始。
△7五歩▲同歩と空間を作っておいて△9七香成。狙いは▲同桂△9六歩▲9八歩△9七歩成▲同歩と桂馬を入手しての△8四桂。
この局面で封じ手となり▲6七金直と上がりました。第1図で金が寄っているのでやりくいのではないかと思っていたのですが,手損でも最善の受けだったようです。
△7六歩と打たれたときに金を上がったからには▲6八銀と引きたいところですが,一晩考えてもよい指し方が浮かばなかったとのことで断念して▲同銀と取りました。後手は△9七香成▲同王△9二飛▲8八王と進めてから△7六桂と取りました。
▲同金と取ったときに△7七歩と打ちましたがこれも▲同王と取ってしまい△9九飛成とあっさり龍を作らせてしまうのが意外ながら好手順だったようです。そこで▲7九香と打った局面は,後手の攻めが繋がらなくなっていました。
機をみて反撃に転じた先手の快勝譜といえるのではないでしょうか。
渡辺竜王が4勝3敗で防衛。第17期,18期,19期,20期,21期,22期,23期,24期,25期,28期に続き連覇で通算11期目の竜王位です。
デカルトが論証のために示した公理のうちのふたつめは,スピノザの哲学の範囲でいえば,実体substantiaを創造し維持することは,実体の特質proprietasを創造し維持することより大きなことであるということでした。実はこの公理のうち,創造することと維持することという点に注目すると,人間がほかの様態modi,modusよりも大きなものではない,いい換えれば完全なものではないということが,そのまま出てきてしまうように僕には思えます。というのは,人間を創造することと蜘蛛を創造することは,人間を創造することの方が困難であるとは必ずしもいえないでしょう。同様に人間の現実的存在を維持することよりも蜘蛛の現実的存在を維持することの方が困難であるともいえないだろうからです。あるいは,人間の身体corpusはスピノザの哲学においては岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請一から,きわめて多くの個体からなっているので,その複雑さの分だけ創造することも困難であると解せなくはありません。しかしその現実的存在を維持するという意味でいうなら,人間よりも寿命の短い動物というのがいくらでも存在するわけで,そうした動物の現実的存在を維持することの方がよほど困難だとも解せなくないのです。
すでに示しているように,各々の事物の完全性perfectioすなわち実在性realitasというのは,各々のものの本性natura,essentiaの力potentiaにほかならないので,もしデカルトがこの公理をもって,実体の特質といわれるものについては,何が困難であり何が容易であるのかは決定できないといったら,スピノザは肯定するように思われます。この場合の実体の特質は,実体の変状affectioすなわち様態と解する余地があり,様態間に完全性の差異はないという見解はスピノザの見解と一致するだろうからです。ですがデカルトは実体と実体の特質を比較しようとしていて,この点についてはスピノザは,もしも認めるとしてもきわめて部分的にでしょうし,デカルトの哲学の範囲の外でのみでしょう。いい換えれば,神が無限に多くの属性attributumによって構成される限りにおいて最高に完全であるという点だけは認めるでしょう。
ではスピノザは,実体および様態の創造と維持についてはどういう見解を有するのでしょうか。
振駒で渡辺明竜王の先手。こうなれば丸山忠久九段の一手損角換り。4の△2二銀で,先手が態度を保留しているうちに後手が早繰り銀から棒銀に組み替え端を狙う将棋。最初から棒銀だったと仮定すると,後手は7筋で歩を交換して8四に引き,さらに9筋に出て先手に歩を突かせてまた引き,その後で仕掛けたという勘定。もしかしたらこれは手損が大きすぎる攻め方だったのかもしれません。
棒銀定番の銀香交換から後手が端に香車を打った局面。先手は▲6八金右と固めました。ここから後手が本格的な攻撃を開始。
△7五歩▲同歩と空間を作っておいて△9七香成。狙いは▲同桂△9六歩▲9八歩△9七歩成▲同歩と桂馬を入手しての△8四桂。
この局面で封じ手となり▲6七金直と上がりました。第1図で金が寄っているのでやりくいのではないかと思っていたのですが,手損でも最善の受けだったようです。
△7六歩と打たれたときに金を上がったからには▲6八銀と引きたいところですが,一晩考えてもよい指し方が浮かばなかったとのことで断念して▲同銀と取りました。後手は△9七香成▲同王△9二飛▲8八王と進めてから△7六桂と取りました。
▲同金と取ったときに△7七歩と打ちましたがこれも▲同王と取ってしまい△9九飛成とあっさり龍を作らせてしまうのが意外ながら好手順だったようです。そこで▲7九香と打った局面は,後手の攻めが繋がらなくなっていました。
機をみて反撃に転じた先手の快勝譜といえるのではないでしょうか。
渡辺竜王が4勝3敗で防衛。第17期,18期,19期,20期,21期,22期,23期,24期,25期,28期に続き連覇で通算11期目の竜王位です。
デカルトが論証のために示した公理のうちのふたつめは,スピノザの哲学の範囲でいえば,実体substantiaを創造し維持することは,実体の特質proprietasを創造し維持することより大きなことであるということでした。実はこの公理のうち,創造することと維持することという点に注目すると,人間がほかの様態modi,modusよりも大きなものではない,いい換えれば完全なものではないということが,そのまま出てきてしまうように僕には思えます。というのは,人間を創造することと蜘蛛を創造することは,人間を創造することの方が困難であるとは必ずしもいえないでしょう。同様に人間の現実的存在を維持することよりも蜘蛛の現実的存在を維持することの方が困難であるともいえないだろうからです。あるいは,人間の身体corpusはスピノザの哲学においては岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請一から,きわめて多くの個体からなっているので,その複雑さの分だけ創造することも困難であると解せなくはありません。しかしその現実的存在を維持するという意味でいうなら,人間よりも寿命の短い動物というのがいくらでも存在するわけで,そうした動物の現実的存在を維持することの方がよほど困難だとも解せなくないのです。
すでに示しているように,各々の事物の完全性perfectioすなわち実在性realitasというのは,各々のものの本性natura,essentiaの力potentiaにほかならないので,もしデカルトがこの公理をもって,実体の特質といわれるものについては,何が困難であり何が容易であるのかは決定できないといったら,スピノザは肯定するように思われます。この場合の実体の特質は,実体の変状affectioすなわち様態と解する余地があり,様態間に完全性の差異はないという見解はスピノザの見解と一致するだろうからです。ですがデカルトは実体と実体の特質を比較しようとしていて,この点についてはスピノザは,もしも認めるとしてもきわめて部分的にでしょうし,デカルトの哲学の範囲の外でのみでしょう。いい換えれば,神が無限に多くの属性attributumによって構成される限りにおいて最高に完全であるという点だけは認めるでしょう。
ではスピノザは,実体および様態の創造と維持についてはどういう見解を有するのでしょうか。