受動的な自己満足というものが人間にあるということは,自己満足acquiescentia in se ipsoの定義Definitioである第三部諸感情の定義二五から明らかであると僕は考えます。
この定義では,人間が現実的に存在していて,その人間が自身の働く力agendi potentiamを観想するcontemplatorことによって喜びLaetitiaを感じるなら,その喜びは自己満足であるといわれています。
スピノザが働く力というとき,それは能動actioを意味します。したがって真の意味で人間が働くといわれるのは,その人間が能動的に何事かをなすということです。よってもしもそのことがその人間自身の精神mensによって認識されるのであれば,それは精神の能動actio Mentisであると解するべきです。ですからもしも自己満足という感情affectusを,この種の認識cognitioから生じる喜びであると規定するのであれば,自己満足というのは必ず能動的な感情であるということになるでしょう。いい換えれば受動的な自己満足というものはないということになるでしょう。
ところが自己満足の定義は,このことだけを意味しているとは僕は解しません。なぜならこの定義は,もしもある人間が自分が働いている力を観想しさえすれば,そこから生じる喜びはすべて自己満足であるといっていると解することができるからです。ですからある人間が自分自身の働く力の認識そのもの,いい換えれば自分の働いている力の観念ideaは,十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念idea inadaequataであるかは問われないのです。よってもしもある人間が自分自身の働く力を表象し,その表象像imagoによって喜びを感じるのであれば,それは自己満足という喜びであるといわなければならないと僕は考えます。しかるに表象像というのは人間の受動passioによって,あるいは同じことですが人間が働きを受けるpatiことによって,その人間の精神mens humanaのうちに生じる観念なのです。つまりこの種の自己満足は明らかに受動的な自己満足ということになるでしょう。
このゆえに,僕は自己満足という感情は,能動的な感情であると限定されるわけではなく,受動的な感情でもあり得ると解します。
第四部定理六が,受動passioないしは受動感情の力potentiaについて説明しているのであり,現実的に存在する人間の力について語ろうとしているのではないというのは,簡単にいえば,受動あるいは受動感情の力は,現実的に存在する人間がその受動あるいは受動感情を免れようとする力を凌駕するということです。ここでは感情affectusについて考察していますから,感情の場合で説明すれば,現実的に存在する人間がある感情を免れようとしても,いい換えればある特定の感情を感じないようにしようとしても,受動感情の力はそれを凌駕するので,人間はその感情を感じないでいることはできないということです。たとえばある人間が現実的に存在していたとして,もうだれも憎まないようにしようと決意したとしても,その人間はだれかを憎んでしまうのです。あるいは同様に,もうだれのことも同情しないようにしようと思ったところで,同情misericordiaという感情を感じずに生きていくことはできないということです。
この定理Propositioは一般的に受動について語っているので,意味を正しく理解するためには,単なる受動の場合で考える方がおそらく理解することは容易になります。たとえば注射を受けるときに,痛みを感じないようにしようと決意したとしても,実際に注射をされれば痛みを感じずにはいられないでしょう。それは僕たちの身体corpusあるいは皮膚なり筋肉あるいは神経なりが注射針によって刺激されるaffici受動の力は,僕たちの決意decretumを凌駕するからです。スピノザがいっているのは,この例と同じようなことが,人間のあらゆる受動に適用されるということです。なので受動感情を,つまりある感情に刺激されるということを,僕たちは自分自身の力によって避けるということはできないのです。
ただし,ここでいわれているのはそうした受動の力なのであって,人間の力ではありません。つまり受動に対抗する人間の力というのもあるにはあるのです。ただひとつだけいえるのは,あらゆる受動の力は現実的に存在する人間の力を凌駕する,あるいは同じことですが上回るので,人間が受動それ自体,いい換えれば外部の物体corpusなりその観念ideaなりによって働きを受けないでいるということは不可能だということです。
この定義では,人間が現実的に存在していて,その人間が自身の働く力agendi potentiamを観想するcontemplatorことによって喜びLaetitiaを感じるなら,その喜びは自己満足であるといわれています。
スピノザが働く力というとき,それは能動actioを意味します。したがって真の意味で人間が働くといわれるのは,その人間が能動的に何事かをなすということです。よってもしもそのことがその人間自身の精神mensによって認識されるのであれば,それは精神の能動actio Mentisであると解するべきです。ですからもしも自己満足という感情affectusを,この種の認識cognitioから生じる喜びであると規定するのであれば,自己満足というのは必ず能動的な感情であるということになるでしょう。いい換えれば受動的な自己満足というものはないということになるでしょう。
ところが自己満足の定義は,このことだけを意味しているとは僕は解しません。なぜならこの定義は,もしもある人間が自分が働いている力を観想しさえすれば,そこから生じる喜びはすべて自己満足であるといっていると解することができるからです。ですからある人間が自分自身の働く力の認識そのもの,いい換えれば自分の働いている力の観念ideaは,十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念idea inadaequataであるかは問われないのです。よってもしもある人間が自分自身の働く力を表象し,その表象像imagoによって喜びを感じるのであれば,それは自己満足という喜びであるといわなければならないと僕は考えます。しかるに表象像というのは人間の受動passioによって,あるいは同じことですが人間が働きを受けるpatiことによって,その人間の精神mens humanaのうちに生じる観念なのです。つまりこの種の自己満足は明らかに受動的な自己満足ということになるでしょう。
このゆえに,僕は自己満足という感情は,能動的な感情であると限定されるわけではなく,受動的な感情でもあり得ると解します。
第四部定理六が,受動passioないしは受動感情の力potentiaについて説明しているのであり,現実的に存在する人間の力について語ろうとしているのではないというのは,簡単にいえば,受動あるいは受動感情の力は,現実的に存在する人間がその受動あるいは受動感情を免れようとする力を凌駕するということです。ここでは感情affectusについて考察していますから,感情の場合で説明すれば,現実的に存在する人間がある感情を免れようとしても,いい換えればある特定の感情を感じないようにしようとしても,受動感情の力はそれを凌駕するので,人間はその感情を感じないでいることはできないということです。たとえばある人間が現実的に存在していたとして,もうだれも憎まないようにしようと決意したとしても,その人間はだれかを憎んでしまうのです。あるいは同様に,もうだれのことも同情しないようにしようと思ったところで,同情misericordiaという感情を感じずに生きていくことはできないということです。
この定理Propositioは一般的に受動について語っているので,意味を正しく理解するためには,単なる受動の場合で考える方がおそらく理解することは容易になります。たとえば注射を受けるときに,痛みを感じないようにしようと決意したとしても,実際に注射をされれば痛みを感じずにはいられないでしょう。それは僕たちの身体corpusあるいは皮膚なり筋肉あるいは神経なりが注射針によって刺激されるaffici受動の力は,僕たちの決意decretumを凌駕するからです。スピノザがいっているのは,この例と同じようなことが,人間のあらゆる受動に適用されるということです。なので受動感情を,つまりある感情に刺激されるということを,僕たちは自分自身の力によって避けるということはできないのです。
ただし,ここでいわれているのはそうした受動の力なのであって,人間の力ではありません。つまり受動に対抗する人間の力というのもあるにはあるのです。ただひとつだけいえるのは,あらゆる受動の力は現実的に存在する人間の力を凌駕する,あるいは同じことですが上回るので,人間が受動それ自体,いい換えれば外部の物体corpusなりその観念ideaなりによって働きを受けないでいるということは不可能だということです。
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