6日に指された第14期女流王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は西山朋佳女流三冠が9勝,香川愛生女流四段が1勝。
振駒で香川女流四段の先手。先手が工夫を凝らした序盤で,後手の西山女流三冠のノーマル四間飛車のような将棋になりました。
ここで先手は☗6六歩と突き☖3二飛に☗3七角と引きました。このために後手に☖4二角と引かれ3筋の交換を受けるために☗2六角と上がりましたが今度は☖2二飛と回られました。
これで角を引くとまた☖3二飛でこれは千日手になります。先手での千日手はつまらないので☗4六歩と打開したものの☖2四歩☗同歩☖同飛で歩の交換に。
飛車角が重くこれで先手は作戦負けです。この後も一方的に殴られるだけの展開になってしまいました。第1図からの実戦の構想は拙かったようです。序盤に工夫していたのですが,おそらく四間飛車になることは想定していなかったので,準備が足りていなかったということだったのではないかと推測されます。
西山女流三冠が挑戦者に。女流王座戦の五番勝負はタイトルを失った第11期以来の出場です。
オランダ語版De Nagelate Schriftenを出版するときに手違いといえるミスはあったとはいえ,フッデJohann Huddeに対する編集者たちの配慮は行き届いていたものであったと僕は思います。これに対してライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対する配慮は,手違いがあったといえるようなミスといえないのであって,部分的にとはいえはっきり配慮の欠如があったと僕は思うのです。そしてこの差異がどこから発生したかといえば,それはライプニッツがドイツの宮廷図書館の館員にすぎなかったのに対し,フッデは編集者たちも在住しているアムステルダムAmsterdamの市長であったことに帰することもできるでしょうが,フッデに対して何を配慮するべきなのかということは編集者たちの間で共有されていたのに対し,ライプニッツに対してどのような配慮をすればよいかということは,必ずしも共有されていなかったからではないかという見方もできると思うのです。つまり,ライプニッツに対して配慮をしなければならないということを知っていたのは編集者の一部であって,そのためにいくつかの配慮がなされたのだけれども,完全に配慮をすることはできなかったという可能性です。
『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』にあるように,ライプニッツはスピノザと面会するためにオランダに入国したとき,まずアムステルダムでパリで知り合ったチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの紹介状をもとに,シュラーGeorg Hermann Schullerと会っています。このとき以降,ライプニッツとシュラーの間には書簡での交流が始まりました。ですからライプニッツがスピノザとの交流のすべてを秘匿したいという希望を有しているということを,シュラーは知っていたのです。シュラーは同時に遺稿集Opera Posthumaの編集者のひとりですから,編集者たちの間でライプニッツに関する情報が共有されていなかったとしたら,シュラーがそれを共有していなかったということはないのです。いい換えれば,ライプニッツに対する配慮をなしたのはシュラーであって,しかもそれは,ほかの編集者たちとの情報の共有なしに,もしかしたらほかの編集者たちが知らないうちに,シュラーが独断でした配慮であった可能性があります。書簡七十と書簡七十二は,シュラーが関係しているものなので,シュラーは事前に内容を知っていた筈です。
振駒で香川女流四段の先手。先手が工夫を凝らした序盤で,後手の西山女流三冠のノーマル四間飛車のような将棋になりました。
ここで先手は☗6六歩と突き☖3二飛に☗3七角と引きました。このために後手に☖4二角と引かれ3筋の交換を受けるために☗2六角と上がりましたが今度は☖2二飛と回られました。
これで角を引くとまた☖3二飛でこれは千日手になります。先手での千日手はつまらないので☗4六歩と打開したものの☖2四歩☗同歩☖同飛で歩の交換に。
飛車角が重くこれで先手は作戦負けです。この後も一方的に殴られるだけの展開になってしまいました。第1図からの実戦の構想は拙かったようです。序盤に工夫していたのですが,おそらく四間飛車になることは想定していなかったので,準備が足りていなかったということだったのではないかと推測されます。
西山女流三冠が挑戦者に。女流王座戦の五番勝負はタイトルを失った第11期以来の出場です。
オランダ語版De Nagelate Schriftenを出版するときに手違いといえるミスはあったとはいえ,フッデJohann Huddeに対する編集者たちの配慮は行き届いていたものであったと僕は思います。これに対してライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対する配慮は,手違いがあったといえるようなミスといえないのであって,部分的にとはいえはっきり配慮の欠如があったと僕は思うのです。そしてこの差異がどこから発生したかといえば,それはライプニッツがドイツの宮廷図書館の館員にすぎなかったのに対し,フッデは編集者たちも在住しているアムステルダムAmsterdamの市長であったことに帰することもできるでしょうが,フッデに対して何を配慮するべきなのかということは編集者たちの間で共有されていたのに対し,ライプニッツに対してどのような配慮をすればよいかということは,必ずしも共有されていなかったからではないかという見方もできると思うのです。つまり,ライプニッツに対して配慮をしなければならないということを知っていたのは編集者の一部であって,そのためにいくつかの配慮がなされたのだけれども,完全に配慮をすることはできなかったという可能性です。
『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』にあるように,ライプニッツはスピノザと面会するためにオランダに入国したとき,まずアムステルダムでパリで知り合ったチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの紹介状をもとに,シュラーGeorg Hermann Schullerと会っています。このとき以降,ライプニッツとシュラーの間には書簡での交流が始まりました。ですからライプニッツがスピノザとの交流のすべてを秘匿したいという希望を有しているということを,シュラーは知っていたのです。シュラーは同時に遺稿集Opera Posthumaの編集者のひとりですから,編集者たちの間でライプニッツに関する情報が共有されていなかったとしたら,シュラーがそれを共有していなかったということはないのです。いい換えれば,ライプニッツに対する配慮をなしたのはシュラーであって,しかもそれは,ほかの編集者たちとの情報の共有なしに,もしかしたらほかの編集者たちが知らないうちに,シュラーが独断でした配慮であった可能性があります。書簡七十と書簡七十二は,シュラーが関係しているものなので,シュラーは事前に内容を知っていた筈です。
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