『『罪と罰』を読まない』では,最終的には4人が『罪と罰』を読み,その内容について語り合っています。登場人物たちの中で,4人がわりと高めの評価を与えているのがスヴィドリガイロフです。評価は別として,スヴィドリガイロフが重要人物であるのは間違いありません。そこにはふたつの意味があります。
ひとつは『罪と罰』において,スヴィドリガイロフには,もうひとりの主人公とでもいうべき役割が与えられている点です。主人公はラスコーリニコフで,ラスコーリニコフは殺人を犯した後で立ち直るのですが,スヴィドリガイロフは立ち直ることができなかったラスコーリニコフというような役回りで,最終的に自殺してしまいます。ラスコーリニコフが立ち直ることができたのは,ソーニャとの出会いがあったからでした。そういう意味でいえば,ソーニャと会うことができなかったラスコーリニコフがスヴィドリガイロフであるといえるでしょう。ですから,もしラスコーリニコフがソーニャと出会っていなければ,ラスコーリニコフも自殺していたかもしれません。
もうひとつはドストエフスキーの作品全体における意味合いです。スヴィドリガイロフは,後の『悪霊』のスタヴローギンを先取りしている点があります。夏目漱石の『明暗』の小林には,小林の前身とでもいうべき人物が,それ以前の作品にも描かれていました。それと同様に,スタヴローギンの前身のひとりとして,スヴィドリガイロフをあげることができるのです。ただしこのことは,『罪と罰』だけに関係するわけではないので,ここでは詳しく説明しません。
重要人物であることは間違いありませんが,僕はスヴィドリガイロフにはあまり好ましい印象を抱いていません、ひどく臆病であるがゆえに姑息であり,しかしまたその臆病さのゆえにときに大胆なことを実行するというのが僕のスヴィドリガイロフに対する短評です。ただし,スヴィドリガイロフはもうひとりのラスコーリニコフでもあります。すなわちこの短評は,単にスヴィドリガイロフにだけ当て嵌まるというわけではなく,ラスコーリニコフについても同じことがいえると思います。
分析が方法であるというのは,数学に限った話ではありません。あるいは語源が仮に数学における方法のことであったとしても,ほかの学問にも適用することができる方法です。それは化学のような自然学でもそうですし,政治学のような社会科学にも適用することは可能です。そして哲学や形而上学でもいうことが可能なのです。
この,幅広い意味での方法のひとつである分析には,それに対立あるいは対抗する方法があります。それが綜合といわれる方法です。上野がホッブズThomas HobbesやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに共通する点として分析をあげたとき,その念頭にはこの分析とそれに対する綜合があったのではないかと僕は推測します。つまりスピノザは分析はしなかったと上野はいっているわけですが,その裏の意味は,スピノザは綜合を行ったということだったと思うのです。そして上野のことばをそのまま真に受けてこのような意味での分析と綜合を規定すれば,スピノザは綜合を数学だと思っていて,分析は数学ではないと思っていたといわなければなりません。ですがそのようにいうのには僕は無理があると思います。なぜなら,分析が綜合に対立あるいは対抗する方法としていわれているのであれば,それは文字通りに方法だからです。いい換えれば数学であるか数学ではないかということではなく,数学的方法であるか数学的方法ではないかということに帰着するからです。ロバート・ボイルRobert Boyleとの論争の例で説明したように,スピノザは方法としての綜合を追求し,分析には重きを置いていませんでした。これは方法論,とりわけ事柄の真理veritasを明らかにするための方法論としてそうしているのであって,このことはその対象が数学であるかないかということとは関係ないのです。それどころか,もし分析によって明らかになった事柄を綜合によっても明らかにすることができるのであれば,それは分析によっても真理が明らかになったということをスピノザは否定することができないでしょうし,したがって分析によって明らかにされた何事か,たとえば数学の公式については,その作業が数学ではないということもできないだろうと思います。
実際にスピノザはそれをしているのです。
ひとつは『罪と罰』において,スヴィドリガイロフには,もうひとりの主人公とでもいうべき役割が与えられている点です。主人公はラスコーリニコフで,ラスコーリニコフは殺人を犯した後で立ち直るのですが,スヴィドリガイロフは立ち直ることができなかったラスコーリニコフというような役回りで,最終的に自殺してしまいます。ラスコーリニコフが立ち直ることができたのは,ソーニャとの出会いがあったからでした。そういう意味でいえば,ソーニャと会うことができなかったラスコーリニコフがスヴィドリガイロフであるといえるでしょう。ですから,もしラスコーリニコフがソーニャと出会っていなければ,ラスコーリニコフも自殺していたかもしれません。
もうひとつはドストエフスキーの作品全体における意味合いです。スヴィドリガイロフは,後の『悪霊』のスタヴローギンを先取りしている点があります。夏目漱石の『明暗』の小林には,小林の前身とでもいうべき人物が,それ以前の作品にも描かれていました。それと同様に,スタヴローギンの前身のひとりとして,スヴィドリガイロフをあげることができるのです。ただしこのことは,『罪と罰』だけに関係するわけではないので,ここでは詳しく説明しません。
重要人物であることは間違いありませんが,僕はスヴィドリガイロフにはあまり好ましい印象を抱いていません、ひどく臆病であるがゆえに姑息であり,しかしまたその臆病さのゆえにときに大胆なことを実行するというのが僕のスヴィドリガイロフに対する短評です。ただし,スヴィドリガイロフはもうひとりのラスコーリニコフでもあります。すなわちこの短評は,単にスヴィドリガイロフにだけ当て嵌まるというわけではなく,ラスコーリニコフについても同じことがいえると思います。
分析が方法であるというのは,数学に限った話ではありません。あるいは語源が仮に数学における方法のことであったとしても,ほかの学問にも適用することができる方法です。それは化学のような自然学でもそうですし,政治学のような社会科学にも適用することは可能です。そして哲学や形而上学でもいうことが可能なのです。
この,幅広い意味での方法のひとつである分析には,それに対立あるいは対抗する方法があります。それが綜合といわれる方法です。上野がホッブズThomas HobbesやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに共通する点として分析をあげたとき,その念頭にはこの分析とそれに対する綜合があったのではないかと僕は推測します。つまりスピノザは分析はしなかったと上野はいっているわけですが,その裏の意味は,スピノザは綜合を行ったということだったと思うのです。そして上野のことばをそのまま真に受けてこのような意味での分析と綜合を規定すれば,スピノザは綜合を数学だと思っていて,分析は数学ではないと思っていたといわなければなりません。ですがそのようにいうのには僕は無理があると思います。なぜなら,分析が綜合に対立あるいは対抗する方法としていわれているのであれば,それは文字通りに方法だからです。いい換えれば数学であるか数学ではないかということではなく,数学的方法であるか数学的方法ではないかということに帰着するからです。ロバート・ボイルRobert Boyleとの論争の例で説明したように,スピノザは方法としての綜合を追求し,分析には重きを置いていませんでした。これは方法論,とりわけ事柄の真理veritasを明らかにするための方法論としてそうしているのであって,このことはその対象が数学であるかないかということとは関係ないのです。それどころか,もし分析によって明らかになった事柄を綜合によっても明らかにすることができるのであれば,それは分析によっても真理が明らかになったということをスピノザは否定することができないでしょうし,したがって分析によって明らかにされた何事か,たとえば数学の公式については,その作業が数学ではないということもできないだろうと思います。
実際にスピノザはそれをしているのです。
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