スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

瑞峰立山賞争奪戦ウインチケット杯&スペイク家

2024-09-02 19:23:46 | 競輪
 昨日の富山記念の決勝。並びは新山‐菅田‐守沢の北日本に内藤,石塚‐古性の近畿に井上‐香川の西国で吉田は単騎。
 古性がスタートを取って石塚の前受け。5番手に吉田,6番手に新山で周回。残り3周のバックに入ると石塚が誘導との車間を開けて待機。新山も吉田との車間を開けました。残り2周のホームから新山が石塚を叩きにいくと石塚も発進。新山が古性の横あたりまで上がったところで打鐘。古性の牽制はあったのですが,新山は屈せず,残り1周のバックで石塚の前に出ようかの勢い。古性が石塚と新山の間を突いて自力で動くと新山は一杯。古性マークの井上は古性に続けず,新山マークの菅田が古性にスイッチ。しかし古性が後ろとの差を広げて優勝。菅田の後を追った吉田が直線で菅田を差して1車身半差で2着。菅田が4分の1車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手はオールスター競輪から連続優勝。記念競輪は5月の函館記念以来となる12勝目。富山記念は初優勝。このレースは石塚と新山のどちらが前受けするかが最初の焦点。枠は守沢の方が内だったのですが,発走後のスピードが違いすぎて古性が誘導の後ろに入ったため,石塚の前受けとなりました。石塚と新山では脚力には差があるのですが,前受けした石塚の突っ張り先行が残り半周くらいまでいきましたので,古性には有利に。狭いところを突いて自力を出さなければならなくなりましたが,古性自身には余裕があったように感じられました。脚力は上位で展開も有利でしたから,当然の優勝といえるでしょう。

 老いた鶏を用意したのがだれであったか定かでありませんが,とにかくスペイク家の家人,たぶんスペイクの妻はそれを調理してから礼拝に向かいました。午前中の礼拝が終わってスペイクが妻とともに家に戻ると,スピノザはそのスープを食していたそうです。午後も礼拝があったので,スペイク家の人びとは揃ってまた出掛けたとあります。
                            
 スペイクは妻とふたりで暮らしていたわけではありません。子どもがありました。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,おそらく1670年にスピノザがこの家に住むようになったとき,すでに3人の子どもがいて,さらに1677年までには4人の子どもが産まれたとありますから,早逝してしまった子どもがいなかったならこの時点で6人ないし7人の子どもがいたことになります。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaだと前日の予備の説教と,この日の午前中の礼拝はスペイクと妻だけで出掛け,午後の礼拝だけ一家総出で出掛けたと読めるようになっています。ただ実際にそうであったかは分かりません。最後の部分は,アムステルダムAmsterdamから来た医師とスピノザのふたりだけがスペイクの家に残ったことを強調するためにこのように書かれている可能性があるからです。とくに,1677年に産まれた子どもというのがこの時点でいたなら,この子は乳吞児ということになりますから,いくら教会に行くとはいえそういう子どもを残していくのは考えにくいように思えます。
 スペイクの一家が礼拝から家に戻ると,アムステルダムから来た医師がスピノザが死んだことをスペイクに伝えました。出掛けるときは老いた鶏を調理したスープを食していた人が,礼拝から終わって帰ったら死んでいたのですから,スペイクにとって,あるいはスペイク家の人びとにとって,これは驚くようなことであったと思われます。医師はスピノザが机の上に置いておいた金貨ひとつといくらかの小銭,それから銀の柄のついたナイフをポケットに入れて,そのままその日の夕方発の船でアムステルダムに帰ってしまいました。二度とスピノザのことを顧みなかったとされていますので,その後の葬儀にも顔を出すことはなかったとスペイクはコレルスJohannes Colerusに伝えたかったのでしょう。

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