昨日の青森記念の決勝。並びは高橋‐新山‐守沢‐永沢の北日本,真杉‐長島の栃木,森田‐宿口の埼玉で佐々木は単騎。
新山がスタートを取って高橋の前受け。5番手に森田,7番手に佐々木,8番手に真杉で周回。残り3周のバックから真杉が上昇。残り2周のホームで高橋に並んだのですが,高橋が突っ張りました。どうも真杉は最初から高橋を叩くつもりがなかったようで,そのまま新山の横で併走し,高橋の番手を取りにいきました。この間に森田も内から上昇し,番手の競りの後ろが森田,守沢,長島の併走になり,その後ろも永沢と宿口で併走。最後尾に佐々木という短い隊列で打鐘。番手の競り合いは決着がつかないまま残り1周のホームを過ぎてバックへ。ここで高橋が自ら外に浮いたので内から新山が先頭に。新山の後ろには森田が入り,森田を追ったのが守沢。しかしこの間に短い隊列の最後尾を回っていた佐々木が発進。あっという間に前を捲り切り,そのまま後続を突き放して優勝。新山を追った森田が6車身差で2着。守沢が1車身差の3着。
優勝した神奈川の佐々木真也選手は5月の函館のFⅠ以来の優勝。グレードレースはこれが初制覇。このレースは真杉と新山の脚力が上位で,番手捲りを敢行できそうな新山を真杉が力で上回れるかが焦点とみていたのですが,真杉が思いもよらない作戦を選択したので,結果的に共倒れのようなレースに。このために伏兵だった佐々木の渾身の一発が決まったというレースでした。佐々木はまだFⅠでも2回しか優勝していないのですが,その2回がいずれも今年に入ってからで,少しずつ少しずつ力をつけてきていることは間違いないと思います。
フロイデンタールJacob Freudenthalは,シュラーGeorg Hermann SchullerがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して『エチカ』の遺稿の買取りを打診しているという事実を重視して,このようなことはシュラーの独断ではできないので,遺稿集Opera Posthumaの編集者たちの間の総意として,スピノザの遺稿の売却というのがあったとみています。しかし後に編集者たちは考えを改め,遺稿集として出版することを決意しました。だから遺稿の売却も断ることになったということです。これもまた,シュラーとライプニッツの間の書簡のやり取りからの解釈です。
ただ,この説明には不十分なところがあります。編集者たちがなぜ考えを改めたのかがまったく説明されていないからです。編集者たちが遺稿の売却を考えたのは,スピノザの遺産からその発行のための費用が十分ではなかったからだとフロイデンタールはいっています。ということはその資金について何らかの目途が立ったから遺稿集の出版へと舵を切ったと考えるのが自然でしょう。しかしその目途というものがどのようなものであったのかということがまったく説明されていないので,僕はその点に疑念を感じてしまうのです。
フロイデンタールの説明が示しているのは,もしシュラーが独断でライプニッツに対して遺稿の買取りを打診したのであれば,それは遺稿集の編集者たちの総意ではなかったということです。いい換えればその場合は,少なくともシュラー以外の編集者たちは,最初から遺稿集を売却しようなどというつもりは毛頭なく,それを何とかして出版しようと考えていたということになります。この路線で説明しているのが『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』です。もちろんこれはスチュアートMatthew Stewartによる創作が入ったものですから,史実がどうであったのかを確定するためにはあまり有益ではないという一面があります。しかしこのことに関しては,スチュアートがいっていることにも一理あるし,こちらの方が正しいのではないかと僕には思えるのです。
ライプニッツがオランダを訪れて以降,ライプニッツとシュラーの間では,定期的な書簡のやり取りがありました。だから少なくともシュラーは,ほかの編集者たちの知らないところで,遺稿の買取りを打診することはできました。
新山がスタートを取って高橋の前受け。5番手に森田,7番手に佐々木,8番手に真杉で周回。残り3周のバックから真杉が上昇。残り2周のホームで高橋に並んだのですが,高橋が突っ張りました。どうも真杉は最初から高橋を叩くつもりがなかったようで,そのまま新山の横で併走し,高橋の番手を取りにいきました。この間に森田も内から上昇し,番手の競りの後ろが森田,守沢,長島の併走になり,その後ろも永沢と宿口で併走。最後尾に佐々木という短い隊列で打鐘。番手の競り合いは決着がつかないまま残り1周のホームを過ぎてバックへ。ここで高橋が自ら外に浮いたので内から新山が先頭に。新山の後ろには森田が入り,森田を追ったのが守沢。しかしこの間に短い隊列の最後尾を回っていた佐々木が発進。あっという間に前を捲り切り,そのまま後続を突き放して優勝。新山を追った森田が6車身差で2着。守沢が1車身差の3着。
優勝した神奈川の佐々木真也選手は5月の函館のFⅠ以来の優勝。グレードレースはこれが初制覇。このレースは真杉と新山の脚力が上位で,番手捲りを敢行できそうな新山を真杉が力で上回れるかが焦点とみていたのですが,真杉が思いもよらない作戦を選択したので,結果的に共倒れのようなレースに。このために伏兵だった佐々木の渾身の一発が決まったというレースでした。佐々木はまだFⅠでも2回しか優勝していないのですが,その2回がいずれも今年に入ってからで,少しずつ少しずつ力をつけてきていることは間違いないと思います。
フロイデンタールJacob Freudenthalは,シュラーGeorg Hermann SchullerがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して『エチカ』の遺稿の買取りを打診しているという事実を重視して,このようなことはシュラーの独断ではできないので,遺稿集Opera Posthumaの編集者たちの間の総意として,スピノザの遺稿の売却というのがあったとみています。しかし後に編集者たちは考えを改め,遺稿集として出版することを決意しました。だから遺稿の売却も断ることになったということです。これもまた,シュラーとライプニッツの間の書簡のやり取りからの解釈です。
ただ,この説明には不十分なところがあります。編集者たちがなぜ考えを改めたのかがまったく説明されていないからです。編集者たちが遺稿の売却を考えたのは,スピノザの遺産からその発行のための費用が十分ではなかったからだとフロイデンタールはいっています。ということはその資金について何らかの目途が立ったから遺稿集の出版へと舵を切ったと考えるのが自然でしょう。しかしその目途というものがどのようなものであったのかということがまったく説明されていないので,僕はその点に疑念を感じてしまうのです。
フロイデンタールの説明が示しているのは,もしシュラーが独断でライプニッツに対して遺稿の買取りを打診したのであれば,それは遺稿集の編集者たちの総意ではなかったということです。いい換えればその場合は,少なくともシュラー以外の編集者たちは,最初から遺稿集を売却しようなどというつもりは毛頭なく,それを何とかして出版しようと考えていたということになります。この路線で説明しているのが『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』です。もちろんこれはスチュアートMatthew Stewartによる創作が入ったものですから,史実がどうであったのかを確定するためにはあまり有益ではないという一面があります。しかしこのことに関しては,スチュアートがいっていることにも一理あるし,こちらの方が正しいのではないかと僕には思えるのです。
ライプニッツがオランダを訪れて以降,ライプニッツとシュラーの間では,定期的な書簡のやり取りがありました。だから少なくともシュラーは,ほかの編集者たちの知らないところで,遺稿の買取りを打診することはできました。
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