スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&文脈

2020-06-26 19:05:56 | 将棋
 23日に指された第61期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は永瀬拓矢二冠が0勝,藤井聡太七段が1勝。
 振駒で藤井七段の先手となり角換り相早繰り銀。途中からは,後手の永瀬二冠が攻めきれるか,先手が受けきれるかという勝負となりました。
                                        
 後手が8六に歩を打って攻めたのに対し,先手が7七に歩を打って受けた局面。ここから後手は☖9六歩☗同歩☖9七歩☗同香☖8五桂と端を攻めました。これに対して☗4八金と金を近づけたのは驚きでしたが次の☖1五歩はもっと驚きました。何か先手に直接的に受けてほしいということだったのでしょうか。
 手の交換としては玉が少しでも固くなった分だけ先手が得をしたように思います。そこで☗8六歩としました。これには☖9七桂成もあったでしょうが☖9八角成と馬を作ることを優先。となれば☗8五歩☖8九馬は必然でしょう。先手は☗8七銀と上がりました。
 後手の継続手は☖5四桂の角取り。これに対して☗6七桂と飛車取りに打ち返したのがうまい受け方。同じようでも☗7六歩だと後に☖7七歩と打たれて後手の攻めが続くようです。
 もし☗4八金と寄っていなければここで☖4六桂も有力だったでしょう。しかし実戦では金取りになりませんから☖4五飛☗3七桂☖4六飛☗同歩と進めて☖6六桂とこちらに使うのが自然だと思います。先手はここで金を逃げずに☗2九飛と引きました。
                                        
 これで先手玉は窮地を脱しています。第2図以下は取った飛車を打ち込んだ先手が寄せ切りました。この将棋は後手に攻めの疑問手があったというより,先手が受けの好手を重ねて勝った一局といっていいのではないでしょうか。
 藤井七段が挑戦者に。王位戦七番勝負は初出場。第一局は来月1日と2日です。

 『アンチクリストDer Antichrist』における比喩は,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheによるスピノザへの批判です。蜘蛛は,多くの人間から嫌われる生物でしょうから,それが批判的な材料になることは,何となく理解できるのではないかと思います。たとえばニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の第二部の中に,「毒ぐもタランチュラ」(岩波文庫版ではタランテラとなっていますが,ここではタランチュラといっておきます)という章を設けていますが,そこでもタランチュラは否定的に書かれています。なお,ここでタランチュラに喩えられているのは平等の説教者であり,ここではスピノザは念頭に置かれていないものと思われます。
 『アンチクリスト』における蜘蛛の比喩は,第一七節の終りから第一八節にかけて出てきます。実はここでも,批判の対象となっているのはスピノザだけではありません。これは僕が『エチカ』の何を美しいと感じるのかということとは直接的な関係はないのですが,ニーチェの文脈自体を順に説明しておきます。
 比喩が登場する直前の文脈で批判されているのは,形而上学者です。この形而上学者というのは,とくにだれかを特定しているわけではなく,形而上学者一般のことです。その批判の対象になっている形而上学者が,いつしか神を自由に操ることができるようになったとニーチェはいっています。その直後に蜘蛛という語が出てきます。形而上学者は長いこと神の周囲に蜘蛛の網を張り巡らせてきたというのがその部分です。そしてそうした形而上学者たちの動きによって,神は催眠術を掛けられてしまい,自らが蜘蛛になったとされています。この,神が蜘蛛になったというのは,神が形而上学者になったという意味です。それはつまり,それまでは形而上学者が神の周囲に蜘蛛の網を張り巡らせていたのですが,ついに神自身が形而上学者となって,自らの体内から世界を紡ぎ出すようになったということです。要するに,それまでは形而上学者が張っていた蜘蛛の巣を,神自身が張るようになったと,比喩としてはいいたいわけです。そしてここでスピノザが登場します。神が自ら蜘蛛として巣を張るようになったのは,スピノザの相の下になのです。

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