昨晩の第61回東京記念。
一旦は先頭に立ったラッキードリームを外から追い抜いていったランリョウオーの逃げ。一時的に2馬身くらいのリードにはなりましたが,1周目の正面では控えたラッキードリームが追いついてきました。3番手はナッジとカイルとウラノメトリア。6番手にアイブランコで7番手がデスティネとミヤギザオウ。ドスハーツは10馬身ほど離れた最後尾。2周目の向正面に入って3番手はナッジとウラノメトリアの2頭。4番手以下がカイル,アイブランコ,ミヤギザオウ,デスティネの順に。最初の1000mは67秒5という滅多にないほどの超スローペース。
2周目の3コーナー手前からペースアップ。ランリョウオーにラッキードリームが並びかけて3番手もナッジとウラノメトリア。5番手にアイブランコ。直線でランリョウオーが一杯。先頭に立ったラッキードリームの外からナッジが追い,ナッジが前に出るとラッキードリームも一杯。抜け出したナッジが優勝。ウラノメトリアが3馬身差の2着でアイブランコが1馬身4分の3差で3着。ラッキードリームが2馬身差で4着。
優勝したナッジは南関東重賞初制覇。北海道でデビューしてサンライズカップに優勝し,JBC2歳優駿も2着。南関東に転入して3歳の時はクラシック路線で善戦を続け,暮れにオープンで南関東での初勝利。それを考えれば南関東重賞を勝つのに時間が掛かったという気がします。このレースは力関係がはっきりしていると思われたのですが,前走でナッジが勝ったこのレースのトライアルで,離された3着と5着に敗れていた馬が2着と3着に入りました。それを思うとナッジ以外の有力馬が凡走したという印象も否めないところです。距離は長い方が力を出せるのでしょう。父は2012年に青葉賞とセントライト記念,2013年に日経賞と天皇賞(春),2014年に天皇賞(春)を勝ったフェノーメノでその父はステイゴールド。母のひとつ上の半姉に2011年のアイビスサマーダッシュとセントウルステークスを勝ったエーシンヴァーゴウ。Nudgeは小突く。
騎乗した大井の矢野貴之騎手は10日のゴールドジュニアに続いての南関東重賞41勝目。東京記念は初勝利。管理している大井の佐野謙二調教師は南関東重賞2勝目。東京記念は初勝利。
スピノザが使用していた机をリューウェルツJan Rieuwertszに送ったことについて,スペイクがコレルスJohannes Colerusに話さなかったことには,ふたつの理由が考えられます。
ひとつは,スペイクがそのことの重大性に気が付いていなかったという場合です。スペイクは自分がリューウェルツに渡したのは単に机であって,その中にスピノザの遺稿が入っているということを知らなかったとしたら,そのことはスペイクにとってとくに大きな意味があることではありませんから,あえてスペイクに話す必要はありません。むしろスピノザが死んだ後に自分がなした多くの事柄のうちのひとつとして,もう忘れてしまっていたということさえありそうです。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにはスピノザの遺品がどのようなものであったのかということが,かなり詳細に書かれているのですが,それはすべて記録を基にコレルスが調べたものであって,スペイクから伝えられたことではありません。いい換えればスピノザの遺品にどのようなものがあったかということは,スペイクはコレルスに何も話していないのかもしれません。もしかしたら遺品がどのようなものであったのかということ自体がスペイクにとっては意味のある情報ではなかったのであって,机もそのひとつであったのかもしれません。
もうひとつ,逆にスペイクは事の重大性に気付いていたからあえてそれを秘匿したということも考えられるでしょう。スペイクがその机をリューウェルツに送ったからスピノザの遺稿集Opera Posthumaが発行される運びになったのですが,その遺稿集はすぐに発売禁書の処分を受けました。これは逆にいえば,意図があったかどうかということは別に,スペイクが禁書の発行に貢献を果たしたということ意味します。他面からいえば,スペイクは禁書に指定されるような本の発行を防ぎ得る立場にあったのに,それをしなかったということを意味します。これはスペイクにとって公にしたくないことであったとしてもおかしくないでしょう。だからスペイクはこのことをコレルスには伝えなかったというケースも考えられると思います。
いずれにせよこのことはコレルスの伝記に書かれなかったのですが,リューウェルツの名前は出てきます。
一旦は先頭に立ったラッキードリームを外から追い抜いていったランリョウオーの逃げ。一時的に2馬身くらいのリードにはなりましたが,1周目の正面では控えたラッキードリームが追いついてきました。3番手はナッジとカイルとウラノメトリア。6番手にアイブランコで7番手がデスティネとミヤギザオウ。ドスハーツは10馬身ほど離れた最後尾。2周目の向正面に入って3番手はナッジとウラノメトリアの2頭。4番手以下がカイル,アイブランコ,ミヤギザオウ,デスティネの順に。最初の1000mは67秒5という滅多にないほどの超スローペース。
2周目の3コーナー手前からペースアップ。ランリョウオーにラッキードリームが並びかけて3番手もナッジとウラノメトリア。5番手にアイブランコ。直線でランリョウオーが一杯。先頭に立ったラッキードリームの外からナッジが追い,ナッジが前に出るとラッキードリームも一杯。抜け出したナッジが優勝。ウラノメトリアが3馬身差の2着でアイブランコが1馬身4分の3差で3着。ラッキードリームが2馬身差で4着。
優勝したナッジは南関東重賞初制覇。北海道でデビューしてサンライズカップに優勝し,JBC2歳優駿も2着。南関東に転入して3歳の時はクラシック路線で善戦を続け,暮れにオープンで南関東での初勝利。それを考えれば南関東重賞を勝つのに時間が掛かったという気がします。このレースは力関係がはっきりしていると思われたのですが,前走でナッジが勝ったこのレースのトライアルで,離された3着と5着に敗れていた馬が2着と3着に入りました。それを思うとナッジ以外の有力馬が凡走したという印象も否めないところです。距離は長い方が力を出せるのでしょう。父は2012年に青葉賞とセントライト記念,2013年に日経賞と天皇賞(春),2014年に天皇賞(春)を勝ったフェノーメノでその父はステイゴールド。母のひとつ上の半姉に2011年のアイビスサマーダッシュとセントウルステークスを勝ったエーシンヴァーゴウ。Nudgeは小突く。
騎乗した大井の矢野貴之騎手は10日のゴールドジュニアに続いての南関東重賞41勝目。東京記念は初勝利。管理している大井の佐野謙二調教師は南関東重賞2勝目。東京記念は初勝利。
スピノザが使用していた机をリューウェルツJan Rieuwertszに送ったことについて,スペイクがコレルスJohannes Colerusに話さなかったことには,ふたつの理由が考えられます。
ひとつは,スペイクがそのことの重大性に気が付いていなかったという場合です。スペイクは自分がリューウェルツに渡したのは単に机であって,その中にスピノザの遺稿が入っているということを知らなかったとしたら,そのことはスペイクにとってとくに大きな意味があることではありませんから,あえてスペイクに話す必要はありません。むしろスピノザが死んだ後に自分がなした多くの事柄のうちのひとつとして,もう忘れてしまっていたということさえありそうです。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにはスピノザの遺品がどのようなものであったのかということが,かなり詳細に書かれているのですが,それはすべて記録を基にコレルスが調べたものであって,スペイクから伝えられたことではありません。いい換えればスピノザの遺品にどのようなものがあったかということは,スペイクはコレルスに何も話していないのかもしれません。もしかしたら遺品がどのようなものであったのかということ自体がスペイクにとっては意味のある情報ではなかったのであって,机もそのひとつであったのかもしれません。
もうひとつ,逆にスペイクは事の重大性に気付いていたからあえてそれを秘匿したということも考えられるでしょう。スペイクがその机をリューウェルツに送ったからスピノザの遺稿集Opera Posthumaが発行される運びになったのですが,その遺稿集はすぐに発売禁書の処分を受けました。これは逆にいえば,意図があったかどうかということは別に,スペイクが禁書の発行に貢献を果たしたということ意味します。他面からいえば,スペイクは禁書に指定されるような本の発行を防ぎ得る立場にあったのに,それをしなかったということを意味します。これはスペイクにとって公にしたくないことであったとしてもおかしくないでしょう。だからスペイクはこのことをコレルスには伝えなかったというケースも考えられると思います。
いずれにせよこのことはコレルスの伝記に書かれなかったのですが,リューウェルツの名前は出てきます。
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