『なぜ漱石は終わらないのか』の第九章の中で,長男と次男の関係の複雑さについて語られている部分があります。
この時代の家制度では,家督を長男がすべて相続することになっていました。次男は長男に何かがあった時の代理のような存在であって,だからたとえば『それから』では次男に代助という名が与えられているのです。逆にいえば漱石がそういう名を与えたということは,漱石はそのことに自覚的に小説を書いていたということになります。
『こころ』では先生が叔父に財産を横領されます。叔父というのは父の先生の弟であって,家督を何も相続できなかったわけです。だからそういう人のことを長男は養う義務があったのであって,その長男が死んだ以上,先生には叔父を養う義務があったともいえます。そう考えれば,叔父が先生の財産を横領したことは,叔父にとっては当然の権利であったとみることもできるのです。
『門』という小説は,この長男と次男の関係が破壊されているという主旨のことがいわれています。宗助は長男ではありますが,各地を転々とした上で東京に出戻ってきたのであって,経済的にはむしろ困窮しています。それで父親が形見として残した屏風を売ることになるのですが,この屏風は正月に出すようなこの家,野中家ですが,その野中家の象徴のようなものなのです。長男である宗助は本来であればそれを受け継がなければならない存在,単に屏風を動産として受け継ぐという意味ではなく,野中家を受け継ぐという意味でも受け継がなければならないのですが,それを経済的な事情によって売ってしまうのです。これは長男が相続した家督を経済的に次男が売ってしまうという物語としてあるべきプロットなのであって,ここでは長男である宗助が次男化してしまっているのです。
長男の次男化というのが『門』という小説の主題のひとつを構成していると解すると,またこの物語の中に違った意味を見出すことができるかもしれません。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,宿主が懇願を受けて葬儀の世話をしたとあります。この宿主がスペイクを意味するのは間違いありませんが,だれから懇願を受けたかは定かではありません。スピノザの友人だったかもしれませんし,もしかしたら地域の公職者であったかもしれません。そしてこの葬儀にかかる費用の全額に関しては,リューウェルツJan Rieuwertszがすべてを支払うという約束の保証になったと書かれていますが,この部分は日本語の文章として不自然であるように思えます。リューウェルツは葬儀の費用をスペイクに支払うことを保証したという意味であって,日本語の意味からすれば,リューウェルツは保証人になったということだと思います。
ただしここで示されているのは3月6日付の手紙です。これは1688年3月6日とされていますが,それでは遅すぎますから,訳者の渡辺が訳注でいっているように,1667年の誤りでしょう。スピノザが死んだのは1677年2月21日で,25日に埋葬されたとされています。葬儀は埋葬の日だったと思われますから,リューウェルツが保証したという手紙はそれよりも後です。したがって,とりあえずスペイクが葬儀費用を立て替えておいて,その費用について後にリューウェルツが保証したというようにも読めますし,葬儀費用について事前にリューウェルツは何らかの方法でその費用を支払うという約束をしておいて,その約束を基に葬儀代をスペイクが立て替えたというようにも読めます。この部分の真相は分かりません。
リューウェルツからスペイクに宛てられたこの手紙には,スヒーダムSchiedamの友人がスピノザの愛顧に報いるために,スペイクに支払うべき金額のすべてをリューウェルツに送ってきたので,それを同封するという主旨のことが書かれていたとありますから,この3月6日付の手紙がスペイクに届いた時点で,スペイクが立て替えた葬儀のための費用は支払われたのだろうと僕は解します。したがって,この手紙の中で葬儀費用についてリューウェルツが保証したという記述が,何を意味するのかが分からないのです。なおここに出てくるスヒーダムの友人は,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesの弟であったと思われます。
この時代の家制度では,家督を長男がすべて相続することになっていました。次男は長男に何かがあった時の代理のような存在であって,だからたとえば『それから』では次男に代助という名が与えられているのです。逆にいえば漱石がそういう名を与えたということは,漱石はそのことに自覚的に小説を書いていたということになります。
『こころ』では先生が叔父に財産を横領されます。叔父というのは父の先生の弟であって,家督を何も相続できなかったわけです。だからそういう人のことを長男は養う義務があったのであって,その長男が死んだ以上,先生には叔父を養う義務があったともいえます。そう考えれば,叔父が先生の財産を横領したことは,叔父にとっては当然の権利であったとみることもできるのです。
『門』という小説は,この長男と次男の関係が破壊されているという主旨のことがいわれています。宗助は長男ではありますが,各地を転々とした上で東京に出戻ってきたのであって,経済的にはむしろ困窮しています。それで父親が形見として残した屏風を売ることになるのですが,この屏風は正月に出すようなこの家,野中家ですが,その野中家の象徴のようなものなのです。長男である宗助は本来であればそれを受け継がなければならない存在,単に屏風を動産として受け継ぐという意味ではなく,野中家を受け継ぐという意味でも受け継がなければならないのですが,それを経済的な事情によって売ってしまうのです。これは長男が相続した家督を経済的に次男が売ってしまうという物語としてあるべきプロットなのであって,ここでは長男である宗助が次男化してしまっているのです。
長男の次男化というのが『門』という小説の主題のひとつを構成していると解すると,またこの物語の中に違った意味を見出すことができるかもしれません。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,宿主が懇願を受けて葬儀の世話をしたとあります。この宿主がスペイクを意味するのは間違いありませんが,だれから懇願を受けたかは定かではありません。スピノザの友人だったかもしれませんし,もしかしたら地域の公職者であったかもしれません。そしてこの葬儀にかかる費用の全額に関しては,リューウェルツJan Rieuwertszがすべてを支払うという約束の保証になったと書かれていますが,この部分は日本語の文章として不自然であるように思えます。リューウェルツは葬儀の費用をスペイクに支払うことを保証したという意味であって,日本語の意味からすれば,リューウェルツは保証人になったということだと思います。
ただしここで示されているのは3月6日付の手紙です。これは1688年3月6日とされていますが,それでは遅すぎますから,訳者の渡辺が訳注でいっているように,1667年の誤りでしょう。スピノザが死んだのは1677年2月21日で,25日に埋葬されたとされています。葬儀は埋葬の日だったと思われますから,リューウェルツが保証したという手紙はそれよりも後です。したがって,とりあえずスペイクが葬儀費用を立て替えておいて,その費用について後にリューウェルツが保証したというようにも読めますし,葬儀費用について事前にリューウェルツは何らかの方法でその費用を支払うという約束をしておいて,その約束を基に葬儀代をスペイクが立て替えたというようにも読めます。この部分の真相は分かりません。
リューウェルツからスペイクに宛てられたこの手紙には,スヒーダムSchiedamの友人がスピノザの愛顧に報いるために,スペイクに支払うべき金額のすべてをリューウェルツに送ってきたので,それを同封するという主旨のことが書かれていたとありますから,この3月6日付の手紙がスペイクに届いた時点で,スペイクが立て替えた葬儀のための費用は支払われたのだろうと僕は解します。したがって,この手紙の中で葬儀費用についてリューウェルツが保証したという記述が,何を意味するのかが分からないのです。なおここに出てくるスヒーダムの友人は,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesの弟であったと思われます。
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