ドストエフスキーの転向が心底のものであったか,表向きのものであったかは分かりません。ただ『悪霊』が,表面上の政治的立場を示すための小説という一面があったのは確かです。ですからそこに登場する人物のうち何人かは,ストーリーがどのように展開していくかとは無関係に,初めから死ななければならなかったといえるでしょう。

思想的転向によって内ゲバ殺人の被害者となるシャートフはもとより,シャートフ殺害に関わったレビャートキン,キリーロフ,ヴェルホヴェンスキーなどはそうした人物に該当します。
スタヴローギンは思想的にはシャートフに近いと思われ,実際にシャートフに生命の危険が迫っていると理解できるような忠告もしています。ただ彼は革命派にカリスマとして奉られた人物ですから,これも死ななければならない運命が最初から与えられていたといえます。
レビャートキンの妹でスタヴローギンの妻のマリヤは,思想とは無関係といえます。ただ彼女は登場人物のうち唯一,スタヴローギンを罵倒するようなこともしますので,スタヴローギンの憎しみを買い,殺されてしまうのは,物語の展開としては理解できるところです。
シャートフの妻のマリーと,産まれたばかりの赤ん坊は,産褥で共に死んでしまいます。実際にはこの子どもはスタヴローギンの子どもであったのですから,マリーにも最初から死という運命が定められていたのだと考えることもできます。また,仮にそうではないとしても,物語の中でとても不自然な死に方をしているというわけではありません。
マヴリーキーという婚約者がありながら,物語が進行する時間の中ではスタヴローギンの愛人とされているリーザも死にます。これもスタヴローギンの愛人という意味では死を宿命づけられていたといえるかもしれません。ただ,物語の展開の中でいえば,このリーザだけは妙に唐突に,しかも不自然に死んでしまうという印象を僕は長らく拭えないでいました。
でも,最近になってあるひらめきがありました。考えとしてまとまったら,いずれ詳しく書いてみようと思っています。
第二部定理二〇は,確かにある観念とその観念の観念が同一個体であるということを匂わせています。でもそれは匂わせているというだけで,明確に示しているわけではありません。それが明らかにされるのは,次の第二部定理二一においてです。
「精神のこの観念は,精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している」。
精神のこの観念というのは,第二部定理二〇でいわれている,ある人間の精神の観念のことです。
この定理では合一ということをどう解するのかが,意味を正しく把握するためのすべてであるといえます。スピノザは,第二部定理一三で示した事柄,つまりある人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumがその人間の身体であるということを根拠として,人間は身体と精神が合一しているといいます。このことから一般的に次のことがいえます。それはもしもAとBが合一しているのであれば,AとBは同一個体であるということです。この定理はある人間の精神とその人間の精神の観念が合一しているといっています。ですからそれは,ある人間の精神と,その人間の精神の観念は同一個体であるという意味になります。よってここからは一般的に,ある観念とその観念の観念は同一個体であるということを帰結させられます。他面からいえば,思惟の属性と思惟の属性との間に,平行論が成立するということを,スピノザはここで認めていると考えて間違いでないことになります。
なお,スピノザは合一という語句は,人間のみを対象objectumとして用います。ここでは人間の精神と,その人間の精神の観念について言及されていますので,合一という語句を用いることが可能でした。しかし僕はもっと一般に,ある観念とその観念対象ideatumは合一しているというように解します。スピノザの哲学において精神とは何かという点に注視するなら,とくに人間に限って合一という語句を使用しなければならない合理的な理由はないと考えるからです。つまり僕はここでスピノザがとくに人間に関して言及している事柄から,もっと広きにわたる一般的な帰結を導いていますが,この方法を否定するような合理的な理由はないものと考えます。

思想的転向によって内ゲバ殺人の被害者となるシャートフはもとより,シャートフ殺害に関わったレビャートキン,キリーロフ,ヴェルホヴェンスキーなどはそうした人物に該当します。
スタヴローギンは思想的にはシャートフに近いと思われ,実際にシャートフに生命の危険が迫っていると理解できるような忠告もしています。ただ彼は革命派にカリスマとして奉られた人物ですから,これも死ななければならない運命が最初から与えられていたといえます。
レビャートキンの妹でスタヴローギンの妻のマリヤは,思想とは無関係といえます。ただ彼女は登場人物のうち唯一,スタヴローギンを罵倒するようなこともしますので,スタヴローギンの憎しみを買い,殺されてしまうのは,物語の展開としては理解できるところです。
シャートフの妻のマリーと,産まれたばかりの赤ん坊は,産褥で共に死んでしまいます。実際にはこの子どもはスタヴローギンの子どもであったのですから,マリーにも最初から死という運命が定められていたのだと考えることもできます。また,仮にそうではないとしても,物語の中でとても不自然な死に方をしているというわけではありません。
マヴリーキーという婚約者がありながら,物語が進行する時間の中ではスタヴローギンの愛人とされているリーザも死にます。これもスタヴローギンの愛人という意味では死を宿命づけられていたといえるかもしれません。ただ,物語の展開の中でいえば,このリーザだけは妙に唐突に,しかも不自然に死んでしまうという印象を僕は長らく拭えないでいました。
でも,最近になってあるひらめきがありました。考えとしてまとまったら,いずれ詳しく書いてみようと思っています。
第二部定理二〇は,確かにある観念とその観念の観念が同一個体であるということを匂わせています。でもそれは匂わせているというだけで,明確に示しているわけではありません。それが明らかにされるのは,次の第二部定理二一においてです。
「精神のこの観念は,精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している」。
精神のこの観念というのは,第二部定理二〇でいわれている,ある人間の精神の観念のことです。
この定理では合一ということをどう解するのかが,意味を正しく把握するためのすべてであるといえます。スピノザは,第二部定理一三で示した事柄,つまりある人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumがその人間の身体であるということを根拠として,人間は身体と精神が合一しているといいます。このことから一般的に次のことがいえます。それはもしもAとBが合一しているのであれば,AとBは同一個体であるということです。この定理はある人間の精神とその人間の精神の観念が合一しているといっています。ですからそれは,ある人間の精神と,その人間の精神の観念は同一個体であるという意味になります。よってここからは一般的に,ある観念とその観念の観念は同一個体であるということを帰結させられます。他面からいえば,思惟の属性と思惟の属性との間に,平行論が成立するということを,スピノザはここで認めていると考えて間違いでないことになります。
なお,スピノザは合一という語句は,人間のみを対象objectumとして用います。ここでは人間の精神と,その人間の精神の観念について言及されていますので,合一という語句を用いることが可能でした。しかし僕はもっと一般に,ある観念とその観念対象ideatumは合一しているというように解します。スピノザの哲学において精神とは何かという点に注視するなら,とくに人間に限って合一という語句を使用しなければならない合理的な理由はないと考えるからです。つまり僕はここでスピノザがとくに人間に関して言及している事柄から,もっと広きにわたる一般的な帰結を導いていますが,この方法を否定するような合理的な理由はないものと考えます。
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