スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

AJSOK杯王将戦&同類

2025-03-11 10:12:03 | 将棋
 8日と9日に旧渋沢邸で指された第74期王将戦七番勝負第五局。
 永瀬拓矢九段の先手で後手の藤井聡太王将が2手目☖3四歩から雁木を目指す将棋に。
                         
 角は先手から交換したのを打ち合ったもの。ここで先手は☗5八金右と上がりました。後手は直前に桂馬を跳ねているので☖5三角と引きました。
 ここから駒組に進んだのですが,結果的に先手は左も右も押さえ込まれてしまい,主張がない一局に。これは後手が強すぎたという面が大きいのですが,もうすでにこの局面は大きな勝負所で,手は損するものの☗6四角☖同歩と交換してから☗5八金右としなければいけなかったようです。
                         
 4勝1敗で藤井王将が防衛第71期,72期,73期に続く四連覇で4期目の王将になります。

 専制者が戦争を勃発させ,その戦争によって飢餓に苦しむ人びとの映像を視聴して,その人びとの悲しみtristitiaを模倣し,その結果effectusとして専制者を憎むようになる場合も,地震の例と同じように解する人がいるのではないでしょうか。ところがここには決定的な差異があります。専制者といえども人間であるので,この憎しみodiumは第四部定理四五により,いかなる意味でも善bonumとはいわれないからです。いい換えればこの憎しみは利益utilitasを齎さず,害悪を齎すことになるからです。なぜそのような相違が生じるのかということを不思議に感じる人がいると思いますので,この事情を説明しておきましょう。
 感情の模倣imitatio affectuumは吉田が示していた通り,第三部定理二七の様式を原理として僕たちのうちに発生します。飢餓に苦しむ人の悲しみを僕たちが模倣するのは,その人びとを僕たちが僕たちの同類とみなすからです。しかし同類には様ざまなレベル差があります。ここでは同じ人間という意味で同類といわれているわけですが,同じ人間という同類意識よりももっと強い同類意識というものがあります。さらにいうと第三部定理二一により,もしも僕たちがその人に対して愛amorという感情を有していれば,単に同じ人間であるという場合よりも感情の模倣は強く働きます。逆に第三部定理二三により,もし僕たちがその人に対して憎しみという感情を有している場合には,感情の模倣は働きにくくなります。このように,感情の模倣は原理的には第三部定理二七の様式で発生するのだとしても,僕たちは常にまたすでに何らかの感情を有している上に,何を同類と強くみなしまた何を同類とは強くみなさないのかということも人それぞれなので,同じ事象を表象しても感情の模倣の生じ方は,現実的には人それぞれで異なるといわなければなりません。そうした事情まで考慮すれば,むしろ第四部定理四五でいわれているように,人間の人間に対する憎しみというのが,何の利益も齎さず,かえって害悪だけを生じさせることになるのを理解するのは,それほど困難なことではないでしょう。
 そもそも第三部定理二七だけからして,たとえばユダヤ人はアラブ人よりもユダヤ人の感情を模倣するでしょう。

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