スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

蜘蛛の意志&別の根拠

2020-09-27 19:21:52 | 哲学
 『ニーチェNietzsche』では,蜘蛛の意味の中で,蜘蛛の意志が,処罰しようとする意志であり,裁こうとする意志であると説明されています。これを解釈する際には,注意しておかなければならないことがあります。というのもニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは,処罰とか裁きといった事柄を,僕たちが通常の仕方で理解しているのとは異なった仕方で理解しているからです。これは処罰とか裁きといった事象の発生と関係します。
                                        
 僕たちは大抵の場合,罪を犯した人間が裁きを受け,その裁きの結果として処罰されるというように解しているのではないかと思います。したがってまず罪という行為あるいは概念notioがあり,それに触れた人間は裁きを受けなければならず,その裁きで罪を犯したとされれば罰を受けなければならないというように,通常は解されているのではないかと僕は思っているのです。ところが,ニーチェは裁きとか処罰といった事柄の発生を,このような仕方では解さないのです。
 ニーチェによれば,人間の中に本性naturaとして,他人を裁きたいとか他人を罰したいという欲望cupiditasが存在しているのであり,この欲望を充足させるために人は他者を裁きまた罰するのです。しかし各人が思い思いに他人を裁きまた罰していたのでは,人間は共同体を構成して生活を営むことが困難になります。そこで,各人の欲望の充足を合理化させるために,罪という概念が発明され,この罪を犯した人間を,共同体の法によって裁きまた罰するようになるのです。つまり,僕たちはまず罪があって,その後に裁きや処罰が発生すると解しているのだとすれば,ニーチェの考え方はその正反対で,まず裁きとか処罰が前もってあり,それを合法的に行うために罪が後から発生してくるのです。蜘蛛の意志が処罰や裁きに向う意志であるというとき,この点を誤解してはなりません。つまりそれは,罪を裁きまた罰することに向う意志というよりは,蜘蛛が本来的に有している欲望なのであって,罪という概念を創出することに向うような意志でもあるのです。
 この種のニーチェの考え方から最も大きな影響を受けた学者はおそらくフーコーMichel Foucaultです。フーコーの哲学や思想は,ニーチェの哲学なしにはあり得なかったでしょう。

 確かに河合の分類は,書簡十二でスピノザが説明している内容を踏襲しています。しかしだからといって,僕のように,無限定indefinitumや無際限indefinitumを無限infinitumと分けて考えることにも理はあります。なぜならスピノザ自身が書簡十二の中で,第三の規定に該当している内容については,無限定といった方がいいでしょうという注釈を与えているからです。これでみればスピノザは,第三の規定については,第一の規定および第二の規定とは分けて考えた方がいいといっていると解釈することもできるわけですから,これを無限とは異なった概念notioとして解することにも,合理性はあるのです。ただ河合はこの部分で確かにスピノザが無限を三種類に分類しているという点に注目し,僕は第三の規定については無限定といった方がいいとスピノザが注釈している点に注目しているから,僕と河合の間で無限という概念に対する解釈に相違が出ることとなっているのです。
 なので,この部分に関しては,確かに河合が無限を三種類の規定に分類する理由のひとつとはなりますが,それが決定的なものとなっているようには僕は思いません。むしろ河合が本論の中であげている,もうひとつの理由の方が,第三の規定を無限に含めることの強力な根拠になるのではないかと僕には思えます。
 スピノザは第一部定理二八を,無限に進むet sic in infinitumと締めています。これは河合は示していませんが,第二部定理九も同様です。しかしこれは,書簡十二の分類に従うなら,無際限に進むとか無限定に進むといわれるべきであることになります。もしもこの無限連鎖の果てに,無限様態modus infinitusが生じてくるというなら,第二の分類に該当しないといえなくもありませんが,これらふたつの定理Propositioが示そうとしているのはそういうことではありません。個物res singularisの起成原因causa efficiensは個物であるということ,また現実的に存在する個物の観念ideaの原因は現実的に存在する個物の観念であるということが,どこまでも継続していくということだからです。つまりこれらの部分ではスピノザは,本来は無際限とか無限定と表現するべきと思われる事柄を無限と表現しているのであり,これを無限の概念として規定することは妥当であるといえるのではないかと思います。

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