⑲-16で示したように,⑲-15の下図から☖7八角と打っていくのはわりと分かりやすい手順で先手の勝ちになります。そこでその局面では☖7八銀と銀の方から打っていくのですが,これが先手にとってはとても難敵となります。
先手の対応は☗5九玉しかありません。☖7九龍☗4八玉まで,先手の対応は同じになります。
後手は角を持駒に残してあります。なのでこの局面では☖3九角と打つ手が生じるのです。これで先手は5七には逃げることができません。しかし先手が勝ちになる筋がひとつだけ残されているのです。次回からはその対応策を検討していくことになります。
吉田はブルーメンブルクHans Blumenbergの整理に従って,中世後期のキリスト教スコラ哲学は,大局的には主知主義的な神Deusの理解から主意主義的な神の理解へと移行する流れの中にあったとしています。永遠真理創造説や連続創造説はその流れの延長上にあるといえるでしょう。吉田はこのふたつの説をデカルトRené Descartesとだけ関連付けた説明をしていますが,永遠真理創造説も連続創造説もデカルトに特有の理論であるわけではないので,スコラ哲学がそのような流れの中にあって,デカルトもその流れの中にいたと解釈します。
この主知主義から主意主義へと向かう流れを断ち切ることになったのはスピノザだと吉田はいっています。ここから吉田のスピノザの哲学の考察が開始されるのですが,そこではスピノザの哲学が主意主義および主知主義と関連付けて探究されているわけではありません。なので,吉田の考察の分析の前に,スピノザの哲学を主意主義および主知主義と関連付けて説明するならどのようになるのかということを,僕が考察してみます。
まず端的にいえるのは,スピノザの思想に示される神が,主意主義的な神であることはできないということです。これは単純なことで,もしも神を主意主義的に理解しようとするのであれば,デカルトが現にそうしていたように,神に自由意志voluntas liberaを帰する必要があります。少なくとも神が自由な意志によって真理veritasを創造したというように解せるのでなければ,神を主意主義的に解することはできないからです。連続創造説が必要とされるのはなぜかということの考察から,これは明らかだといえるでしょう。ところが第一部定理三二系一にあるように,スピノザは神に自由意志があるということを否定します。ですからスピノザの哲学における神が,主意主義的な神であるということはありません。
ではスピノザの哲学における神は主知主義的な神であるのかといえば,単純にそのように断定できるというわけでもありません。たとえば,神が全知全能であるということをスピノザが否定するnegareかといえば,否定はしないと僕は考えますが,スピノザは神が世界を創造するcreareということ自体を,僕たちが解するような意味では否定すると思うのです。
先手の対応は☗5九玉しかありません。☖7九龍☗4八玉まで,先手の対応は同じになります。
後手は角を持駒に残してあります。なのでこの局面では☖3九角と打つ手が生じるのです。これで先手は5七には逃げることができません。しかし先手が勝ちになる筋がひとつだけ残されているのです。次回からはその対応策を検討していくことになります。
吉田はブルーメンブルクHans Blumenbergの整理に従って,中世後期のキリスト教スコラ哲学は,大局的には主知主義的な神Deusの理解から主意主義的な神の理解へと移行する流れの中にあったとしています。永遠真理創造説や連続創造説はその流れの延長上にあるといえるでしょう。吉田はこのふたつの説をデカルトRené Descartesとだけ関連付けた説明をしていますが,永遠真理創造説も連続創造説もデカルトに特有の理論であるわけではないので,スコラ哲学がそのような流れの中にあって,デカルトもその流れの中にいたと解釈します。
この主知主義から主意主義へと向かう流れを断ち切ることになったのはスピノザだと吉田はいっています。ここから吉田のスピノザの哲学の考察が開始されるのですが,そこではスピノザの哲学が主意主義および主知主義と関連付けて探究されているわけではありません。なので,吉田の考察の分析の前に,スピノザの哲学を主意主義および主知主義と関連付けて説明するならどのようになるのかということを,僕が考察してみます。
まず端的にいえるのは,スピノザの思想に示される神が,主意主義的な神であることはできないということです。これは単純なことで,もしも神を主意主義的に理解しようとするのであれば,デカルトが現にそうしていたように,神に自由意志voluntas liberaを帰する必要があります。少なくとも神が自由な意志によって真理veritasを創造したというように解せるのでなければ,神を主意主義的に解することはできないからです。連続創造説が必要とされるのはなぜかということの考察から,これは明らかだといえるでしょう。ところが第一部定理三二系一にあるように,スピノザは神に自由意志があるということを否定します。ですからスピノザの哲学における神が,主意主義的な神であるということはありません。
ではスピノザの哲学における神は主知主義的な神であるのかといえば,単純にそのように断定できるというわけでもありません。たとえば,神が全知全能であるということをスピノザが否定するnegareかといえば,否定はしないと僕は考えますが,スピノザは神が世界を創造するcreareということ自体を,僕たちが解するような意味では否定すると思うのです。
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