スピノザの哲学における基本感情affectus primariiは,欲望cupiditasと喜びlaetitia,そして悲しみtristitiaです。そして悲しみは喜びの反対感情になります。
悲しみは第三部諸感情の定義三にあるように,より大なる完全性perfectioからより小なる完全性への移行transitioを意味します。悲しみを理解する上で最も注意が必要なのは,より小なる完全性というのはそれ自体では完全性であるという点です。いい換えれば悲しみは完全性の欠如とか欠乏privatioを意味するものではありません。このことは第二部定義六にあるように,スピノザが完全性と実在性realitasを等置していることから明らかです。僕たちは実在しているがゆえに悲しみを感じるのであり,もし完全性が欠如している,いい換えれば実在性を有さないならば悲しみをはじめとして一切の感情を抱き得ないからです。よってこの限りにおいて,悲しみがより大なる完全性からより小なる完全性への移行,いい換えれば僕たちの働く力agendi potentiaが減少あるいは阻害されることだとしても,ある積極的な状態だと解さなければならないのです。
第三部定理五にあるように,相反する本性は同一の主体subjectumの中には存在しません。よってある主体の中にその主体の働く力を減少させ阻害するものはありません。したがって僕たちは僕たち自身を十全な原因causa adaequataとして悲しみを感じることはありません。つまり第三部定理五九にあるように,能動的な悲しみというのはありません。いい換えれば僕たちは働きを受けるpati限りにおいて悲しみを感じるのです。
第四部定理八にあるように,悲しみの意識は悪malumの認識cognitioです。つまり僕たちは僕たちに悲しみを齎すもののことを悪と認識します。人間の現実的本性actualis essentiaは悲しみを忌避しますので,第三部定理九備考のように,僕たちは僕たちが忌避するもののことを悪と認識します。それが悪であるがゆえに忌避するのではありません。これは第四部定理一九と齟齬を来すように思われるかもしれませんが,スピノザの哲学における悲しみあるいは悪の基礎は,第四部定理八および第三部定理九備考の方にあると僕は考えます。
それでは柏葉の論文の内容に関する考察に入りますが,この部分は第二部定理八備考でスピノザがいっていることを,どのように解釈するべきなのかということと,ほとんど一義的に関係しています。ですから備考Scholiumの内容を丹念に示していき,柏葉がそれに対してどのような解釈を示しているのかということを平行に示していく形で,僕の論考を進めていくことにします。
スピノザは備考の最初の部分で,第二部定理八系でいっていることは特殊な事柄であって,それを十分に説明するどのような例も挙げることはできないといいきっています。そしてその直後に,このことをひとつの例だけで解説するように努力するといっています。これはきわめて矛盾したことをいっているようですが,そのように解する必要はありません。スピノザが実際に解説している例は,第二部定理八系でいっている事柄を,十分には説明していないけれど,ある程度の解説にはなっていると理解しておけばいいでしょう。ただスピノザ自身が,それを十分に説明するような例ではないと考えていることは明白で,そのゆえにそれをどのように解釈するのかということは,とても重要であるといえます。
解説の最初にスピノザがいっているのは,円という図形は,その中で互いに交わるすべての直線の線分から成る矩形が相互に等しいという本性naturaを有しているということです。柏葉の論文では矩形の部分が長方形となっています。厳密にいうと矩形というのはすべての角が直角の四角形をいう場合があって,その場合は正方形も矩形の一種になりますが,正方形というのはすべての線分の長さが等しい長方形だと考えることができますから,この相違は問題にする必要がありません。一般的には矩形という語よりも長方形という語の方が僕たちは使い慣れていると思いますので,僕もここでは長方形といいます。この長方形の一種として,正方形もあると解してください。
このことから,円の中には,相互に等しい無限に多くのinfinita長方形が含まれているということが帰結します。円の中で互いに交わるすべての直線の線分は無限に多くあるので,それによって形成される長方形も無限に多くなるからです。
悲しみは第三部諸感情の定義三にあるように,より大なる完全性perfectioからより小なる完全性への移行transitioを意味します。悲しみを理解する上で最も注意が必要なのは,より小なる完全性というのはそれ自体では完全性であるという点です。いい換えれば悲しみは完全性の欠如とか欠乏privatioを意味するものではありません。このことは第二部定義六にあるように,スピノザが完全性と実在性realitasを等置していることから明らかです。僕たちは実在しているがゆえに悲しみを感じるのであり,もし完全性が欠如している,いい換えれば実在性を有さないならば悲しみをはじめとして一切の感情を抱き得ないからです。よってこの限りにおいて,悲しみがより大なる完全性からより小なる完全性への移行,いい換えれば僕たちの働く力agendi potentiaが減少あるいは阻害されることだとしても,ある積極的な状態だと解さなければならないのです。
第三部定理五にあるように,相反する本性は同一の主体subjectumの中には存在しません。よってある主体の中にその主体の働く力を減少させ阻害するものはありません。したがって僕たちは僕たち自身を十全な原因causa adaequataとして悲しみを感じることはありません。つまり第三部定理五九にあるように,能動的な悲しみというのはありません。いい換えれば僕たちは働きを受けるpati限りにおいて悲しみを感じるのです。
第四部定理八にあるように,悲しみの意識は悪malumの認識cognitioです。つまり僕たちは僕たちに悲しみを齎すもののことを悪と認識します。人間の現実的本性actualis essentiaは悲しみを忌避しますので,第三部定理九備考のように,僕たちは僕たちが忌避するもののことを悪と認識します。それが悪であるがゆえに忌避するのではありません。これは第四部定理一九と齟齬を来すように思われるかもしれませんが,スピノザの哲学における悲しみあるいは悪の基礎は,第四部定理八および第三部定理九備考の方にあると僕は考えます。
それでは柏葉の論文の内容に関する考察に入りますが,この部分は第二部定理八備考でスピノザがいっていることを,どのように解釈するべきなのかということと,ほとんど一義的に関係しています。ですから備考Scholiumの内容を丹念に示していき,柏葉がそれに対してどのような解釈を示しているのかということを平行に示していく形で,僕の論考を進めていくことにします。
スピノザは備考の最初の部分で,第二部定理八系でいっていることは特殊な事柄であって,それを十分に説明するどのような例も挙げることはできないといいきっています。そしてその直後に,このことをひとつの例だけで解説するように努力するといっています。これはきわめて矛盾したことをいっているようですが,そのように解する必要はありません。スピノザが実際に解説している例は,第二部定理八系でいっている事柄を,十分には説明していないけれど,ある程度の解説にはなっていると理解しておけばいいでしょう。ただスピノザ自身が,それを十分に説明するような例ではないと考えていることは明白で,そのゆえにそれをどのように解釈するのかということは,とても重要であるといえます。
解説の最初にスピノザがいっているのは,円という図形は,その中で互いに交わるすべての直線の線分から成る矩形が相互に等しいという本性naturaを有しているということです。柏葉の論文では矩形の部分が長方形となっています。厳密にいうと矩形というのはすべての角が直角の四角形をいう場合があって,その場合は正方形も矩形の一種になりますが,正方形というのはすべての線分の長さが等しい長方形だと考えることができますから,この相違は問題にする必要がありません。一般的には矩形という語よりも長方形という語の方が僕たちは使い慣れていると思いますので,僕もここでは長方形といいます。この長方形の一種として,正方形もあると解してください。
このことから,円の中には,相互に等しい無限に多くのinfinita長方形が含まれているということが帰結します。円の中で互いに交わるすべての直線の線分は無限に多くあるので,それによって形成される長方形も無限に多くなるからです。
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