⑦の最後のところでいったように,谷津は天龍源一郎が阿修羅・原と組み,ジャンボ・鶴田と戦うようになった時代から,全日本プロレスのスタイルは,ひとつの試合の中でも物語を創作していくようなものになったといっています。そして天龍が全日本プロレスを退団し,三沢光晴が鶴田と戦うようになるとそれはさらにパワーアップされたといっています。天龍が退団した後,三沢がタイガー・マスクから素顔に戻った時はそのリング上に谷津はいました。谷津の雑感⑤で示したように,谷津はこれを馬場に進言したといっていて,その責任を果たすという意味もあったのでしょう。ですがこの直後に谷津も全日本プロレスを退団してSWSに移籍していますから,パワーアップした試合というのは谷津が体験したものではありません。逆にいえば退団後も谷津は全日本の試合を気にして見ていたということでしょう。
その後で鶴田が病気で欠場となったため,全日本プロレスは,三沢,川田利明,小橋建太,田上明のいわゆる四天王の時代に入ります。谷津はこの時代のプロレスがマックスであったとしています。これ以上のプロレスはないとまで言っていますから,これは最大級の評価といっていいでしょう。このインタビューはおそらく2019年の初頭に行われたものだと推測されますが,その当時の新日本プロレスと比較しても,四天王プロレスの方が上だったと谷津は断言していますので,よほど四天王プロレスというのが谷津の好みに合致したプロレスであったのだと思われます。三沢や川田は身体はそう大きくはありませんでしたがヘビー級の体重はありましたし,小橋や田上は日本人のヘビー級のプロレスラーとしては大型の部類に入ります。そうした身体の大きな選手があのようなプロレスをやったからそれは究極だったというのが谷津の見解です。つまり谷津もまた馬場と同じように,身体が大きなことはプロレスラーとして重要だとみていたのでしょう。これはもしかしたら谷津が,デビューした後の時代にアメリカでプロレスをしていたことと関係しているかもしれません。それは身体の大きさの重要性が,アメリカにもまだ残っていた時代だったと思われるからです。
カトリックが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の思想内容を問題視していたことは疑い得ないと思いますが,かつてその著者と親しく交際し,その後も疎遠ではなかった人物が司祭になることは事実として問題視されなかったのです。ですからカトリックの内部では,危険思想の持ち主と,危険思想の持ち主と親しくしている人物は,分けられていたと考えてよいでしょう。その程度の分別はローマトリックの内部に確実にあったのです。
なお,この書簡六十七の二に関しては,宗教的パンフレットのような形で公開されたのが1675年であって,実際にステノNicola Stenoがこれを書いたのは1671年4月のことであるとする説があります。『神学・政治論』が刊行されたのが1670年のことですから,この説によれば,実際に書簡が書かれたのはその直後であったことになります。この場合,書簡の中でいわれている今,すなわちステノがスピノザとは疎遠ではないと思っている今というのが,その時点まで前倒しされることになります。それでも実際に公開されたのが1675年であったのなら,1675年の時点でそれが公開されても内容は問題視されなかったということになりますから,カトリックの内部事情が変遷したというようには解さなくてもいいと思います。つまり書かれた時期がいつであったのかということは問わずに,1675年の時点でこの書簡の内容は問題視されていなかったと理解してよいと僕は思います。
次に,書簡七十六では,アルベルトAlbert Burghとスピノザがステノについて語り合ったとされていますが,そのときにアルベルトはスピノザの数々の論拠について是認してくれたといっています。これは語り合われた内容というのが,ステノがカトリックに改宗したことに関連していて,かつスピノザがそれに反論するような論拠をアルベルトに対して語ったら,アルベルトはそれを肯定したという意味にしか解せません。これは書簡全体の文脈からしてそうでなければならない筈だからです。ということはその時点ではアルベルトはまだ改宗してなかったのは間違いありません。
ステノがカトリックへの改宗を決意したのがいつであったのかということははっきりと分かりません。
その後で鶴田が病気で欠場となったため,全日本プロレスは,三沢,川田利明,小橋建太,田上明のいわゆる四天王の時代に入ります。谷津はこの時代のプロレスがマックスであったとしています。これ以上のプロレスはないとまで言っていますから,これは最大級の評価といっていいでしょう。このインタビューはおそらく2019年の初頭に行われたものだと推測されますが,その当時の新日本プロレスと比較しても,四天王プロレスの方が上だったと谷津は断言していますので,よほど四天王プロレスというのが谷津の好みに合致したプロレスであったのだと思われます。三沢や川田は身体はそう大きくはありませんでしたがヘビー級の体重はありましたし,小橋や田上は日本人のヘビー級のプロレスラーとしては大型の部類に入ります。そうした身体の大きな選手があのようなプロレスをやったからそれは究極だったというのが谷津の見解です。つまり谷津もまた馬場と同じように,身体が大きなことはプロレスラーとして重要だとみていたのでしょう。これはもしかしたら谷津が,デビューした後の時代にアメリカでプロレスをしていたことと関係しているかもしれません。それは身体の大きさの重要性が,アメリカにもまだ残っていた時代だったと思われるからです。
カトリックが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の思想内容を問題視していたことは疑い得ないと思いますが,かつてその著者と親しく交際し,その後も疎遠ではなかった人物が司祭になることは事実として問題視されなかったのです。ですからカトリックの内部では,危険思想の持ち主と,危険思想の持ち主と親しくしている人物は,分けられていたと考えてよいでしょう。その程度の分別はローマトリックの内部に確実にあったのです。
なお,この書簡六十七の二に関しては,宗教的パンフレットのような形で公開されたのが1675年であって,実際にステノNicola Stenoがこれを書いたのは1671年4月のことであるとする説があります。『神学・政治論』が刊行されたのが1670年のことですから,この説によれば,実際に書簡が書かれたのはその直後であったことになります。この場合,書簡の中でいわれている今,すなわちステノがスピノザとは疎遠ではないと思っている今というのが,その時点まで前倒しされることになります。それでも実際に公開されたのが1675年であったのなら,1675年の時点でそれが公開されても内容は問題視されなかったということになりますから,カトリックの内部事情が変遷したというようには解さなくてもいいと思います。つまり書かれた時期がいつであったのかということは問わずに,1675年の時点でこの書簡の内容は問題視されていなかったと理解してよいと僕は思います。
次に,書簡七十六では,アルベルトAlbert Burghとスピノザがステノについて語り合ったとされていますが,そのときにアルベルトはスピノザの数々の論拠について是認してくれたといっています。これは語り合われた内容というのが,ステノがカトリックに改宗したことに関連していて,かつスピノザがそれに反論するような論拠をアルベルトに対して語ったら,アルベルトはそれを肯定したという意味にしか解せません。これは書簡全体の文脈からしてそうでなければならない筈だからです。ということはその時点ではアルベルトはまだ改宗してなかったのは間違いありません。
ステノがカトリックへの改宗を決意したのがいつであったのかということははっきりと分かりません。